村山城址鎌倉幕府の創設に貢献した武蔵七党の一つ村山党の本拠地・村山城は残堀川左岸の狭山丘陵の突端にあった。 現在は東京都瑞穂町にあたるその地には臨済宗・福正寺の境内となっている。 武蔵七党の村山党の本拠地と言ったが村山城を築城したのは戦国時代の村山土佐守、雅楽介の頃。村山土佐守、雅楽介は村山党の末裔を称した。もっとも、系譜は実は明確ではない。 しかし、城址の周辺の地に村山を名乗る家が未だに散見されることもまた事実。10世紀末に上総介平忠常の子・良文の次男・頼任が狭山丘陵の麓の村山郷に本拠を構え村山貫主を称したことに始まる村山家。一族には、金子家、宮寺家、仙波家、山口家がある。いづれも名だたる鎌倉武士。 保元・平治の乱(1156-59)には金子十郎家忠、仙波七郎、山口六郎などの勇躍が記録されている。 元亀天正年間に村山土佐守、雅楽介が歴史上に再び名を現すまでに脈々と村山の地に息づいていたことは想像に難くない。 村山土佐守、雅楽介らは小田原北条家に仕えていたため、1590(天正18)年に豊臣秀吉によって小田原城が落城すると命運を共にした。 写真は福正寺にある村山土佐守一族の墓。
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