1303 | 嘉元元 | 朝倉広景 | 斯波高経の母方の祖父長井時秀の被官である朝倉広景が、斯波高経に従って、但馬国養父郡朝倉庄から越前国足羽郡足羽庄代官として黒丸館に入る。『壬生本朝倉家譜』 |
1333 | 正慶2 | 足利尊氏が丹波篠村で挙兵。朝倉広景も篠村に参陣。 |
1338 | 暦応元 | 新田義貞が越前国吉田郡藤島にて討死。 |
1352 | 文和元 | 朝倉広景が没する。 |
1355 | 文和4 | 高景 | 斯波高経の二男・氏頼とともに足利直冬方として京都で闘う。 |
1357 | 延文2 | 室町幕府初代将軍・足利尊氏から越前国足羽預所職を与えられる。 |
1366 | 貞治5 | 『貞治の変』室町幕府第2代将軍・足利義詮が斯波高経に謀反の疑い有りとして、高経の子である室町幕府執事・斯波義将ともども追放。このとき、朝倉高景は将軍側として勲功を挙げ、越前の宇坂庄、棗庄、東郷庄、坂南本郷、河南下郷、木部嶋、中野郷の地頭職を賜る。 |
1367 | 貞治6 | 室町幕府が大野郡泉庄、小山庄における朝倉高景の乱暴狼藉に停止命令。 |
1372 | 応安5 | 朝倉高景が亡くなる。 |
朝倉氏景 | 『貞治の変』が原因で主家である斯波家から冷遇され重臣から外れる。また、、足利義満から「大功」の法名を賜るも、室町幕府側からも冷遇される。 |
1401 | 応永8 | 朝倉氏景 | 朝倉氏景が安居の弘祥寺に大仏殿を建立。 |
1405 | 応永12 | 朝倉氏景 | 朝倉氏景が亡くなる。 |
朝倉為景 | 朝倉氏第4代当主に関しては事績詳らかならず。 |
1428 | 正長元 | 為景の孫・家景に朝倉孝景が生まれる。 |
1429 | 正長2 | 斯波義将の孫で斯波氏(武衛家)第7代・斯波義淳(尾張・越前・遠江守護)の管領職就任を巡って斯波家宿老として甲斐氏、織田氏とともに京都に召喚される。 |
1436 | 永享8 | 朝倉為景が亡くなる。 |
1438 | 永享10 | 朝倉教景 | 第4代鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実と対立(『永享の乱』)。これに対して、第6代室町幕府将軍・足利義教が篠川御所・足利満直、駿河国守護今川範忠に鎌倉公方討伐命令。合わせて、朝倉教景も出兵し幕府軍の勝利に貢献。 |
1440 | 永享12 | 自害した足利持氏の遺児・春王丸(後の足利成氏)、安王丸を下総の結城氏朝、結城持朝が叛旗を翻す。朝倉教景も将軍の命によって再び関東出兵。戦功によって、将軍・義教から「教」の偏諱を賜る。 |
1442 | 嘉吉2 | 朝倉教景が弘祥寺に仏殿を再興。 |