亥山城址 †越前・尾張・遠江守護である斯波義敏(1435-1508)が家臣である朝倉孝景によって攻められ最後に篭った城として知られる。
亥山城は南北朝時代に南朝方の堀口氏政が居城としていた。 これを、新田義貞の死後に、足利方の斯波氏によって攻められ落城。 以降は、越前守護である斯波氏の庶流の斯波義種が大野郡司となり戌山城を築城し、その家臣である二宮氏が亥山城に入った。 その関係で、後に、斯波氏が朝倉氏によって圧迫されると最後に二宮氏とともに亥山城に籠ったのである。 斯波義種が京都へと駆逐された後は、朝倉義景の従兄弟である朝倉景鏡の居城となった。 朝倉景鏡は織田信長が朝倉義景を攻めた際には織田方に与したものの、一向一揆との戦いにおいて平泉寺で討死した。 城址は、今は、日吉神社となり、堀に面影を残している。
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