首途八幡宮

西陣にある源 義経ゆかりの神社。

かつて、この神社の地に金売吉次の屋敷があったとされ、義経はここから奥州平泉に向けて旅立ったとされる。首途と書いて「門出(かどで)」と読み、文字通り義経が旅立った八幡宮ということになる。

本来の名は内野八幡宮といい内裏の北東で王城鎮護のために、1174(承安4)年に義経が宇佐八幡宮を勧請したもの。

ちなみに、源 義経の母親の常盤御前は、平治の乱で夫の源 義朝が戦死した後に、平 清盛に養われて後、大蔵卿一条長成の妻となっている。その一条長成の従兄弟の藤原忠隆の子である基成は1143(康治2)年から1153(仁平3)年の間、陸奥守として奥州に赴任。任が終わった後も奥州に留まり、娘を藤原秀衡に嫁がせている。藤原泰衡の母がその人。そして、源 義経が自害したのは基成の衣河館だった。

このような関係からすると、金売吉次というのは九条家本『平治物語』に「かの金商人は、元は公家の青侍にて有りしが、身貧、為方なさに、始めて商人になりける」とあるように公家侍だったとされている。『古事談』に関白藤原忠通の御厩舎人の菊方が奥州藤原基衡のもとに赴いていた逸話が出ている。こうした点に着目して、五味文彦氏は吉次が藤原家の御厩舎人だったのではないかとしている。


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