村岡良文と渡辺綱

「『今昔物語』に関東の地で嵯峨源氏の箕田源次充(みつぐ)と桓武(坂東)平氏の村岡五郎良文とが手勢を率いてどちらが武勇において優れているか競ったという話が出ている。

で、この二人は手勢を率いて対峙したってことからすると、近い場所をそれぞれ本拠地としていたのではないのかと考えられているんだ。ただ、その土地がどこなのかについては、武蔵国説と相模国説がある。大きく分けて、この2つの説があるんだけど、それぞれの説の中にもいろいろなバリエーションがある。何せ平安時代の話なので伝説的要素が色濃くなっているという次第。もっとも、伝説的であるほうがロマンはあるというもの。

まず、武蔵国説では、箕田源次充の箕田郷といのは鴻巣の箕田だろうという説がある。対する村岡良文は熊谷郷の村岡だったろうということになる。それ以外にも箕田郷というのは東京都港区三田だとする説がある。丁度、オーストラリア大使館や慶應義塾大学がある辺り。ただ、そうすると、箕田源次充と村岡良文の本拠地が少し離れてしまう。

一方で、相模国説の場合は川崎市多摩区三田が箕田郷で、藤沢市村岡が村岡郷ということになる。この説だとやはり2人の根拠地が離れてしまう。ということからすると、武蔵国説のうちの鴻巣の箕田郷と熊谷の村岡というのがもっともらしいということになる。ところが、これですっきりするかというと、藤岡の周辺つまり鎌倉の周辺に村岡良文の子孫の鎌倉党の人々の本拠があることから、村岡良文のほうは武蔵国大里郡村岡郷(熊谷の村岡)を本拠地としていたが後に相模の鎌倉郡村岡郷に移ったとも考えられる。

ただ、これで一件落着かというとそうではなくて、いやいや移ってくる前は下総国結城郡村岡ではないのかという説が一番もっともらしいなどとも言われている。

まぁ、いろいろ様々な考え方があるってことかな」


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