北宋の建国

後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった[ A ]が後周の最後の皇帝から禅譲を受けて建国する。[ A ]は他の十国を征服し、分裂状態の終止を目指すが、志半ばにて病死する。

後を継いだのは弟の趙匡義(趙光義)であるが、この継承には不明な点が多く[ B ]と呼ばれる。太宗となった趙匡義は兄の事業を受け継いで中国の統一を果たし、[ C ]の充実を図る。科挙制度は太宗の子真宗の代で完成されたといわれる。

[ C ]の確立は皇帝独裁権の確立をもたらしたが、同時に過度の文官優遇により軍事力の衰退をもたらした。

1004年、北方の[ D ]が南下して宋に侵攻してきた。真宗は親征軍によりこれを迎え撃ち、[ D ]に対して毎年財貨を送ることで和睦した([ E ])。[ D ]の侵攻と同時に西のタングート族は[ F ]を名乗って宋に反旗を翻していたが、こちらにも財貨を送ることで和睦した。

この盟約により平和を獲得した宋は圧倒的な経済力を背景に高い文化の華を開かせる。この時期には絵画・陶磁器・漢詩などいずれの分野でも中国歴代でも最高峰と称される作品が少なくない。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。

また後世において、[ D ]や[ F ](後に南宋時代の金も含めて)財貨を贈る事で平和を買ったことを財政面や民族主義的な側面から非難する意見もあるが、これによって遼や西夏の支配階層を堕落させて結果的には相手国の軍事力の弱体化を招いただけでなく、絹織物や陶磁器、茶などを愛好する習慣がこれらの諸国の社会全体に広まったために輸入量が激増して結果的には贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流する事になり、結果的には宋の経済力の強化に繋がったとみる見方もある。

[出典]:wikipediaより改編。


A:趙匡胤
B:千載不決の議
C:科挙制度
D:遼
E:せん淵の盟
F:西夏


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