ローマ帝国とキリスト教

紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の五賢帝時代の後、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人の皇帝が入れ替わるようになり、これを「軍人皇帝」と呼ぶ。

パクス・ロマーナにより、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりに[ A ](土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制の[ B ]が発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。

284年に最後の軍人皇帝となった[ C ](在位 : 284年-305年)が混乱を収拾するため、帝権を強め、領土を四分割統治し、一時安定を取り戻す。4分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、[ C ]は東の正帝に就く。以降、[ D ](専制君主制)に移行した。一方、[ C ]のもうひとつの策であったキリスト教迫害が失敗し、死後再び混乱した。

これを鎮圧して再び単独皇帝となった[ E ](大帝。在位 : 副帝306年-、正帝324年-337年)は、キリスト教の勢力と妥協し、313年[ F ]を公布してキリスト教を公認した。のちの380年、[ G ](在位 : 379年-395年)のときには国教に定められた。

[ E ]は専君の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシア帝国の攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入が激化し、帝国の解体は止まらなかった。

[出典]:wikipediaより改編。


A:コロヌス
B:コロナートゥス
C:ディオクレティアヌス
D:ドミナートゥス
E:コンスタンティヌス1世
F:ミラノ勅令
G:テオドシウス1世


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