後白河法皇幽閉される

治承3年8月に嫡男の小松宰相重盛が亡くなると、平 清盛に意見する人間はいなくなってしまう。もし、重盛が父清盛よりも先立つことがなかったならば、平家の行く末も変わっていたに違いない。ともすると、源氏の攻勢は食い止められたかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。

重盛の死後3ヵ月も過ぎるか過ぎないかという頃、清盛は大軍を率いて福原から京都へと入った。それまで、清盛が福原にあった理由は鹿ケ谷の陰謀以来、気まずい関係に陥っていた後白河法皇との正面対立を避けるため。そんな中での京都入りであったから、都の人々は遂に全面対決、大きな戦になるのかと噂しあった。加えて、京に動乱がある時には鳴動するとの言い伝えを持っている東山の将軍塚も大きな音を立てる始末。事実、清盛相国は京から反平家の勢力を一掃しようと考えていた。最初の犠牲者となったのは関白の藤原基房で関白から太宰権師へと左遷。続いて48人の公家衆を免職し、平家一門か、親平家の公家衆に挿げ替えた。

前関白の藤原基房は九州の太宰府へと泣く泣く京を離れていく。妻子を残しての赴任であるが、かつて菅原道真は太宰府へと左遷されて亡くなったことを思い起こし、今生の別れとなることを覚悟、出家してしまう。これだけでも涙を誘う話だというのに、清盛入道は

「勝手に出家したことは誠にけしからん」

として、藤原基房を太宰府にではなく備前へと配流処分とした。同じように配流処分とされた反平家の公達には、大納言資賢、尾張に流された太政大臣師長、伊豆に流された左衛門佐業房がいた。

後白河法皇の取り巻きを一通り追放すると、清盛は宗盛に命じて2万余騎をもって後白河法皇の七条殿御所を包囲し、鳥羽殿へと幽閉する。この時、後白河法皇に付き従ったのは左衛門佐という老尼と少年の業忠、静憲法師ほかに数名という哀れな有様であった。


平 重盛:1138(保延4)-1179(治承3)。平 清盛の長男。六波羅小松第に住んでいたことから小松内大臣と呼ばれる。鹿ケ谷事件の際に父清盛が後白河法皇幽閉を強行しようとしたのを諫止したエピソードで知られる。子は維盛であり、後に平家一門から離脱して高野山に入った上で那智で入水自殺。孫は平家一門滅亡後も生き残り六代御前として知られる。

藤原基房:1145(久安元)-1231(寛喜2)。松殿と呼ばれる邸宅に住んだことから松殿と呼ばれる。兄の基実亡き後はその子の近衛基通が幼少であったために兄の地位を承継。さらに兄の遺領を得られると考えていたものの、兄嫁の平 盛子が多くを相続したために、平 重盛亡き後に後白河法皇に懇願して我が物とした。これがもとで、高倉天皇の関白まで務めるが、後白河法皇方として平 清盛によって配流処分となる。この配流は関白として史上初。1180年に赦免されて再び京の地を踏む。1183年に木曾義仲が京を占領すると娘の伊子を木曾義仲に差し出す。しかし、翌年に木曾義仲が源 義経によって討たれると失脚。


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