令旨下る

治承4年4月、高倉宮以仁王が伊豆の源 頼朝ほかの諸国の源氏に「平家を討て」との令旨(命令)を散位宗信卿を経て出した。

高倉宮以仁王は、後白河法皇の第2皇子で、兄には二条天皇として即位した守仁親王、弟には高倉天皇として即位した憲仁親王がいた。以仁王が皇位を継がず、親王ではなく王でしかなかったのは母親の身分が低かったことによる。そして、母親の身分の低さゆえに、30歳を過ぎても結婚をしていなかった。このように、以仁王は皇族の中にあって決して恵まれた環境にあったわけではなかったものの、八条院女房三位局をそばに置き、政治とは全く無関係に詩歌の道で日々を過ごしていた。

以仁王と非常に仲の良い間柄にあったのが、平家政権の中で唯一の源氏となっていた源三位頼政だった。年はもう75歳にもなっていたものの、今だ矍鑠として武芸にも詩歌にも通じていた。源 頼政と以仁王とは本人同士が親しかっただけではなく、頼政の娘の二条院讃岐と以仁王の妹の式子内親王とが宮廷歌人として有名だったことも、一層二人の仲を深めていた。

以仁王は皇位継承からは遠ざけられ望みすら無かったこと、源 頼政も平家政権の中でかろうじて命脈を保つだけだったことから、二人の関係は政治抜きのものから始まった。けれども、深い付き合いとなって、互いの不満を吐露するようになると、話題は自然と政治の方向へと向かっていくのも、二人の有能ぶりからすると当然とも言える。

そもそも、頼政は好き好んで平家に与したわけではない。先の「平治の乱」では源 義朝に味方したものの、義朝や藤原信頼に対する失望から、一族揃って戦線を離脱。この離脱のために源氏方として罰せられることもせず、生かされもせず殺されもせずといった状況で、結果的に平 清盛のもとにあっただけに過ぎない。

頼政の子に伊豆守仲綱がいて、東国一の「木の下(このした)」という駿馬を持っていた。「木の下(このした)」は東国一というだけでなく、京で一番の名馬と噂された。そして、噂を聞いた平 宗盛がどうしても手に入れたくなり画策を始める。宗盛は平家一門、言うことには誰も逆らうことなど出来はしない。まず、宗盛は源 仲綱に「木の下(このした)」を見せてくれと頼む。見せてくれというのが、譲ってほしいという意味だということを知っている仲綱は

恋しくば来ても見よかし身に添うるかげをばいかでか放ちやるべき

という歌を詠んで頑として拒んだ。

経緯(いきさつ)を知った父親の頼政は平家の恐ろしさを熟知していたので息子を諭して「木の下(このした)」を宗盛に渡した。事がこれで済めば、さほどの禍根を残すことは無かったのかもしれない。

ところが、あろうことか、「木の下(このした)」を譲られた宗盛は「木の下(このした)」の名を「仲綱」と改めて、源 仲綱を侮辱したのである。仲綱は父のもとに走り、

「これほどの侮辱を受けて何もしないというのは武門の恥。いま直ぐにでも宗盛の邸を襲って宗盛を討つか、それが叶わないというなら出家して都を出るほかありません」

と切々と訴える。頼政も武勇で知られた人物。息子の決心を聞いて心が動かないはずはない。加えて、平家の政権の中に長い間留まった間に受けた数々の恥辱は数え知れない。

ここに、都の源氏は平家全盛の中にあって反平家の狼煙(のろし)を上げる決心を固める。

心が決まれば動くのも速い。自分ひとりの郎党だけでは平家に刃(やいば)を向けることすら出来ないことを知っていた歴戦のツワモノは、旧友であり皇族でもある高倉宮以仁王を口説きに口説いて、諸国の源氏を召集し平家を打倒すべきことを了承させる。

平内府宗盛の小さな驕りが頼政・仲綱父子の積年の恨みに火を付け、そのか細い火がやがて大きな火となって、平家一門を焼き尽くしてしまうということは、この時点では誰も想像すらしていなかった。


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