ぶらぶら絵葉書

宇喜田川

宇喜田川を理解するには、まず「宇喜田」という地名の由来を押さえておく必要がある。宇喜田の名は、戦国末期から江戸時代初期にこの地を開発した宇田川喜兵衛定氏に由来する。定氏は天文2(1533)年、品川に生まれた武士で、小田原北条氏に仕え、弘治年間(1555〜57)に小松川へ移り住んだと伝えられる。北条氏滅亡後、徳川氏の関東入国後も小松川に留まり、慶長元(1596)年、小松川近くの葦原など約三千石を開墾。この功績により上田一町五反を賜り、開発地は正保年間(1644〜48)の『武蔵田園簿』には「宇喜新田」と記され、元禄検地からは「宇喜田村」と呼ばれるようになった。地名は、宇田川の「宇」、喜兵衛定氏の「喜」、新田の「田」を組み合わせたものとされる。定氏は元和6(1620)年に没し、小松川の源法寺に葬られた。宇喜田村は後に東宇喜田村・西宇喜田村に分かれ、その名称は現在の北葛西・中葛西・西葛西・宇喜田町一帯に受け継がれている。

この地域は、江戸時代以前から河川や入江、低湿地が複雑に入り組んだ低平地であった。海に近く標高が低いため自然排水だけでは農地として利用しにくく、その一方で水路を整備すれば排水・灌漑と舟運の両方に利用できた。そのため新田開発が進むにつれ、水路網の整備がこの地域の土地利用を支える重要な要素となった。

宇喜田川は、こうした葛西地域の水路網の一部として、新川から分かれる派川として成立した。新川は、旧江戸川と中川を結ぶ運河である。元々は旧江戸川から分岐していた古川(船堀川とも呼ばれた)の流路の一部を、江戸時代初期に変更・拡張してつくられたもので、行徳の塩を江戸へ運ぶ「塩の道」として、また利根川・江戸川水系と小名木川・隅田川水系を結ぶ水運の大動脈として重要な役割を果たした。

宇喜田川は、この新川の宇喜田橋西側(現在の北葛西一丁目)付近で分岐し、西から南へ向けて蛇行しながら流れ、中川に合流していた。もともと比較的短い河川であったとされる。周辺には新川を軸とする複数の派川・用悪水路が存在し、農地を細かく区画するように水路が張り巡らされ、排水・灌漑・水運という複数の機能を担う水路網を形成していた。

この水路網を大きく変えたのが、荒川放水路・中川放水路の開削である。この放水路は洪水対策を目的として明治末から工事が進められ、大正13(1924)年に通水、昭和5(1930)年に全体が完成。現在の荒川・中川の大きな河道が形成されたことで、それ以前から存在していた葛西地域の河川や水路の流路は影響を受けた。宇喜田川もその一つで、放水路の建設により流路が改められ、中川との合流地点は従来よりも上流側(現在の北葛西二丁目・西葛西一丁目の境界付近)に移された。もともと短かった川は、この結果さらに短くなった。

宇喜田川の消滅は、放水路による改修だけが原因ではない。戦後、葛西地域では農地が次第に宅地や道路、公共施設へと転換され、都市化が急速に進んだ。かつて農業用水・排水路として必要だった水路はその役割を失い、衛生環境の改善や道路整備、土地区画整理にともなって埋め立てや暗渠化が進められた。宇喜田川もこうした過程を経て水面を失い、現在の市街地へと姿を変えていった。

旧宇喜田川の痕跡は、完全に消え去ったわけではない。中川沿い、北葛西二丁目・西葛西一丁目境界付近には、かつて宇喜田川が中川に合流していた地点があり、児童公園の入口付近に当時の護岸(コンクリート壁)の一部が現在も残っている。そこから上流側へ、堤防跡に沿って川跡をたどることができ、一部は駐車場や細い通路に転用されている。さらに上流には、旧河道につくられた「宇喜田川公園」があり、新川との合流点(宇喜田橋・新川休養公園付近)近くまで、住宅地の中に旧流路の痕跡を見出すことができる。

東京都江戸川区北葛西@2020-03.


今日も街角をぶらりと散策.
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