戸張氏館

埼玉は吉川にあるお城。

1570(元亀元)年頃に、

戸張氏は相馬師常の子の八郎行常が葛飾郡戸張郷を領して戸張を名字としたのが始まりです。戸張城が本拠地です。この八郎行常の兄の五郎義胤の孫の忠胤も戸張を名乗りました。戸張忠胤の兄の孫五郎左衛門尉胤村の孫の三郎胤重も戸張を名乗りました。

戸張氏は大井追花城主の高城氏と所領を巡って抗争を繰り返していたと伝わります。この高城氏は千葉氏の重臣である小金城主の高城氏の一族だと考えられます。

戸張氏は古河公方の重臣の梁田氏に与し下河辺荘吉川郷に資料を得て戸張城を去りました。この背景には戸張氏が小弓公方足利義明に与して、1538(天文7)年に第一次国府台合戦で敗れたことが関係していると考えられます。戸張城には高城氏の支配下に置かれたと考えられています。

その後、相馬胤綱の子の忠胤の子孫の戸張九右衛門胤房は北条氏に仕えて武蔵二郷半領吉川村の所領を維持したことが知られています。その戸張胤房が館を構えたのが吉川の戸張氏館だと考えられます。

豊臣秀吉による小田原征伐の後に、戸張胤房の嫡子の胤久が徳川家康に召し出され駿府に詰めました。