竹田城

天空の城として知られる兵庫県は朝来にある梯郭式の山城。1443(嘉吉3)年頃に山名宗全によって築城されました。

城は山陰道と播但道を見下ろす標高354メートルの虎伏山にあります。これは城山の形が虎が伏せているように見えることから名づけられたと言われています。

竹田城は本丸、二の丸、三の丸、南二の丸、北千畳、南千畳、花屋敷といった曲輪から構成。

1441(嘉吉元)年、勢力を削ぐための所領没収の噂が流れる中で、播磨守護赤松満祐が第6代室町幕府将軍足利義教を自宅に招き結城合戦の祝勝の宴を催し、その最中に将軍足利義教を暗殺してしまいます(嘉吉の乱)。祝宴の場にいた石見守護・山名熙貴はその場で斬殺。細川野州家で備中・伊予分郡守護の細川持春は片腕を切断の重傷、山城・出雲・隠岐・飛騨守護の京極高数、周防・長門・豊前・筑前守護の大内持世らは重傷を負い死去。

この乱を鎮圧し赤松満祐を城山城で自害させたのが但馬守護の山名持豊(宗全)。

乱を鎮圧した功績によって山名持豊(宗全)は播磨守護を兼任することになります。そして、1443(嘉吉3)年頃に山名持豊(宗全)は竹田城を築城し、太田垣光景を城主としました。太田垣氏は垣屋氏、八木氏、田結庄氏らとともに山名四天王と称された一族。なお、播磨守護代太田垣誠朝を初代城主だとする見解もあります。

ともあれ、竹田城は太田垣景近、宗朝、俊朝、宗寿、朝延と7代にわたって太田垣氏が城主を務めます。しかし、1569(永禄12)年と織田信長の命を受けた豊臣秀吉が但馬に侵攻すると第8代城主太田垣輝延は織田軍に降伏。しかし、1573(天正元)年に毛利の吉川元春が迫ってくると毛利方に寝返り、1575(天正3)年には八木豊信、垣屋豊続らと山名祐豊を擁立し吉川元春との間に芸但和睦を結んで豊臣秀吉率いる織田軍の侵攻に対抗します。

豊臣秀吉は1577(天正5)年と1580(天正8)年の2度にわたって但馬に侵攻。豊臣秀吉の弟の豊臣秀長が岩洲城を攻め落とし竹田城に迫ります。この戦いの末に竹田城は落城。豊臣秀長が城代として竹田城に入ります。

太田垣輝延は再び城に入ることを許されましたが、1580(天正8)年に豊臣秀長が山名祐豊の居城である有子山城を陥落させ山名祐豊が開城後すぐに亡くなると太田垣輝延は城から追われました。

その後、豊臣秀長の旗下の桑山修理太夫重晴が城主となり、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子の赤松広秀が2万2,000石で城主となります。現在の竹田城の姿は文禄・慶長年間(1596〜1615)に赤松広秀によって整備されたとされています。

赤松広秀は関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に加担し細川幽斎の丹後田辺城を攻略。しかし、西軍が敗れると鳥取城を攻めていた東軍の亀井茲矩の策に従って宮部長房の鳥取城の城下を焼き討ちにします。この行為が徳川家康の逆鱗に触れ赤松広秀は切腹を命じられ竹田城も廃城となりました。


2014年7月訪問


竹田城初代城主・太田垣光景の供養塔