革手城

第3代美濃守護の土岐頼康が1353年6月に築城し長森城から本拠地を移した城です。

土岐頼康以降11代にわたって守護大名土岐家の居城となりました。

平清盛が率いる平家政権に対して源頼政が以仁王とともに挙兵すると、美濃源氏の源光長は最初は討伐側として戦いに加わります。しかし、美濃と近江で平家に対する大叛乱が興ります。平清盛の弟の門脇中納言教盛の子の越前三位平通盛は源光長の居城である美濃蒲倉城を落城させて叛乱を鎮圧。その後、源光長は木曽義仲に従って上洛。後白河院と木曽義仲が決裂すると後白河院に従い、木曽義仲が後白河院を幽閉した法住寺合戦において院を守護して討死します。

源光長の子の光衡は伯父の源光基から美濃源氏の惣領を譲受け、源頼朝に従って軍功を挙げ1189年に美濃守護に任じられ土岐家の実質的な祖となりました。

土岐頼貞は足利尊氏に従って鎌倉幕府を倒し、それまでの東美濃に加えて西美濃を支配下に収め、美濃守護職に任ぜられます。この時の守護館は大富にありました。

土岐頼貞を継いだ土岐頼遠は守護館を大富から長森に移します。次の第3代美濃守護の土岐頼康は足利尊氏の命により転戦し信濃や伊予を平定。その軍功によって美濃・尾張・伊勢3ヶ国の守護職に任ぜられます。土岐頼康が守護館を長森から川手に移しました。以降、第11代守護の土岐頼芸が斎藤道三によって追放されるまで美濃守護の拠城として機能しました。

ちなみに、美濃を追放された土岐頼芸は常陸江戸崎城で土岐原家を継いでいた弟の土岐治頼を頼ります。土岐原氏は土岐一族の原秀成が関東管領上杉憲方に従って常陸国信太郡に所領を得たことに始まる家。小田氏に拠点の江戸崎城を奪われるなど衰退したため宗家から土岐治頼を迎えていました。土岐頼芸は土岐家の系図などを土岐治頼に譲渡。これにより土岐治頼は家名を土岐原から土岐に戻しました。

土岐頼芸は、次いで、上総万喜城城主の土岐為頼を頼って落ち延びました。