枡形城

標高84メートル、比高60メートルの枡形山に築かれたお城。

北の麓の広福寺に稲毛三郎重成の供養塔があります。そのために、枡形城は稲毛重成が築城したとも伝わります。

1504(永正元)年、関東管領山内上杉顕定、第2代古河公方足利政氏と扇谷上杉朝良、今川氏親、伊勢盛時(北条早雲)が武蔵国立河原で激突した立河原の戦いに際して伊勢盛時(北条早雲)が入った城としても知られています。

山内上杉顕定は扇谷上杉朝良の居城である河越城を攻めていたものの守りが堅いために入間川対岸に7年間も釘付けになります。そこで、攻撃目標を江戸城に切り替えるとともに、実弟の越後守護上杉房能、同盟を結んだ古河公方足利政氏に援軍を要請。

これに対して河越城の扇谷上杉朝良は同じく同盟関係にあった駿河・遠江守護今川氏親と伊勢盛時(北条早雲)に援軍を要請します。これに応えて、伊勢盛時(北条早雲)と今川氏親が枡形城に入りました。ここに河越城を出た扇谷上杉朝良も合流し多摩川を渡って立河原に至ったところで山内上杉顕定・足利政氏の軍と激突。山内上杉顕定は敗れて鉢形城へと引き上げています。

また、1569(永禄12)年に武田信玄が北条氏康の小田原城を攻めた際に、北条方の横山弘成が枡形城に籠城したと伝わります。