加納城

三法師として知られ豊臣秀吉によって擁立された織田秀信が城主となっていた岐阜城は、関ヶ原に向う途中の東軍の池田輝政と福島正則によって落城。

岐阜城落城の翌年に岐阜城の館邸を移築して築城したのが加納城になります。加納城は本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、大藪曲輪を持つ関ヶ原戦後で最初の本格城郭として築城されました。

徳川家康は、この加納城に長女・亀姫の婿の奥平信昌を入れます。奥平家は桶狭間の戦いで今川義元が討死すると今川家から徳川家の家臣となったものの、武田信玄が元亀年間(1570〜1573)に三河へと侵攻すると武田家に属しました。この時、織田信長のアドバイスによって徳川家康は奥平貞能の子の貞昌に嫁がせることで、奥平家を再び徳川家の家臣団に組み込みます。

その後、武田信玄が亡くなり、武田家を武田勝頼が継ぐと、勝頼は奥平家への報復として1575(天正3)年に1万5千の軍勢を率いて長篠城に進軍。これを防ぎきった功績によって奥平貞昌は織田信長から偏諱「信」を与えられ信昌と名を改めます。

奥平信昌は徳川家康の江戸入府時に、上野小幡3万石を与えられていました。岐阜に領地を得ると上野小幡は長男の家昌に譲っています。この家昌の家系が中津の奥平家になります。

加納藩の奥平家は信昌の三男の忠政が継いだものの、忠政は信昌の存命中に亡くなります。加納藩は忠政の子の忠隆が継ぎます。しかし、この忠隆も祖母の亀姫が亡くなって数年後に亡くなります。嫡男の右京は病弱であったために相続が認められず加納藩奥平家は改易。加納城には従兄の大久保忠職が封じられました。

加納藩は大久保家の後、戸田家、安藤家と続き、永井家の代で明治維新を迎えます。