平塚城

豊島氏の居城である平塚城に関しては、「太田道潅状(『北区』記録四八)」に豊島氏が長尾景春に与同した際に「江戸近所の豊島勘解由左衛門尉・同弟平右衛門尉、(石神井・練馬城の)両所に『対の城』を構え候の間、江戸・川越の通路不自由により、先ず、勘解由左衛門尉の要害を以って落居せしむべく」企図し「江戸要害に向け、平塚と申すところに『対の城』を拵え、楯籠り候の間」とある。通常、対の城は攻め手が対陣するために築く城であり、この場合は豊島氏が太田道潅の動きに対して築いた城ということになります。