夏見城

船橋の長福寺にある夏見氏の城。

この城は1564(永禄7)年に城主の夏見加賀守政芳が高城氏によって攻められ討死したことで落城したという。

長福寺に伝わる1536(天文5)年付けの長福寺聖観音菩薩像胎内銘には夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定の名が刻まれている。豊嶋勘解由左衛門尉という名乗りは室町時代の豊島氏当主が代々受け継いだものとして知られている。1477年に山内上杉家の家宰の地位を奪われた長尾景春は関東管領山内上杉顕定に叛旗を翻します。これに相模国、武蔵国の国人衆が呼応。石神井城主豊島泰経も長尾景春と義理の兄弟であった関係から挙兵します。山内上杉家と同族である扇谷上杉家の家宰・太田道灌は江戸城、河越城、岩槻城を前線として叛乱の鎮圧に当たります。

これに対して、豊島泰経は石神井城、弟の泰明は練馬城そして平塚城によって江戸城・河越城・岩槻城のラインを遮断。太田道灌は三浦義同、上杉朝昌、千葉自胤とともに練馬城を攻め、江古田原で両軍は会戦。この戦いで豊島軍は敗れ豊島泰明は討死します。兄の豊島泰経は石神井城に逃れるも、総攻撃を仕掛けられ落城。

石神井城を逃れた豊島泰明は平塚城に立て籠もるも、平塚城も落城。以降、豊島泰明は足立に逃れたとされますが行方知れずとなります。

夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定という名乗りは夏見氏が豊島宗家との関係を持つものと考えるべきか、あるいは、下総国相馬郡府河の府河豊嶋氏と関係を持つものと考えるべきか定かではありません。もっとも、府河豊嶋氏も豊島泰明の子孫との伝承を持つので夏見氏が武蔵豊島氏と何らかの繋がりがあることは確かと言えそうです。

近くには米ヶ崎城があり、夏見城と対をなしていたと考えられます。