桃山画壇四大家

いわゆる桃山時代を中心として活躍した、狩野派の狩野永徳(1543-1590)、京狩野の狩野山楽(1559-1635)、能登地方伝来の雪舟流画法を継承し狩野派を凌いだ長谷川等伯(1539-1610)、近江浅井家重臣の子として生まれ東福寺で修行しつつ狩野永徳に学んだ海北友松(1533-1615)のこと。

藤原隆信(1142-1205)
平安・鎌倉時代前期の歌人、画家。
大原三寂の一人である藤原為経を父として産まれる。藤原定家の異父兄にあたる。
美福門院・八条院・後白河院に仕え、上野介・越前守・若狭守を歴任。
アンドレ・マルローをして「東洋のモナリザ」と言わしめた伝源頼朝像などの肖像画は隆信の作品とされている。
但し、神護寺が所有し神護寺略記に源頼朝像とされる肖像画は本当に源頼朝像なのかという点に疑義を唱えられている上に、そもそも神護寺略記の通りに藤原隆信の作かも確定されたとは言いがたい。
また、承安3(1173)年製作の「平野行啓・日吉御幸図(建春門院御願最勝光院御堂障子)」は絵師常磐光長の手によるが、供奉衆の面貌は降信によるものとされている。

大原三寂
丹後守藤原為忠の子である為業(寂念)、為経(寂超)、頼業(寂然)のこと。常盤三寂とも呼ばれる。それぞれ歌人として名を馳せる。
それぞれ「寂」の名を冠したことから三寂と称される。
また、かつて源常(みなもとのときわ)の山荘があった地(現在の右京区常盤)に為忠の邸宅があったことから常盤三寂という。
大原には寂超が出家の後に暮らした。
この寂超の子が神護寺蔵平重盛像、同源頼朝像で知られる藤原隆信(1142-1205)。
なお、妻は藤原親忠の女(むすめ)で美福門院加賀だが、彼女は隆信を産んだ後に藤原俊成のもとに走り藤原定家を産んでいる。

狩野派

狩野正信を始祖とする絵師集団。息子の元信は大和絵を受け継ぐ土佐光信の女婿となり、水墨画の表現力に大和絵の彩色を融合させる様式を確立する。それ以降、室町末期から桃山時代、江戸時代明治初年まで続き、日本美術界の中心的地位を占めた。探幽三兄弟を始祖とする宗家中橋家、鍛冶橋家、木挽町家、浜町家の狩野派奥絵師4家と、その分家である表絵師14家から構成された。
なお、狩野正信は千葉県夷隅町の出身。小栗宗湛の後を受けて、足利義政によって取り立てられた。