

フランス新古典主義の巨匠であるアングル[Jean-Auguste-Dominique Ingres;1780-08-29/1867-01-14]の1806年の作品.
本作はナポレオン・ボナパルトをローマ皇帝的な威厳をもって描き出した肖像画である.ナポレオンの即位[1804年]後間もない時期に制作され, 彼の権威と統治の正当性を視覚的に確立する政治的意図を強く帯びている点に特徴がある.現在はパリのアルメ博物館[Musée de l'Armée]に所蔵されている.
画面中央に正面向きで座すナポレオンは, 古代ローマのユピテル, あるいはフェイディアスが制作したとされるオリンピアのゼウス像を想起させる厳格なポーズをとり, 玉座に深く腰掛けている.その姿は単なる近代の統治者ではなく, 時間を超越した普遍的支配者としてのイメージを帯びている.右手にはシャルルマーニュの王笏, 左手には「正義の手」と呼ばれる笏を持ち, さらに頭上には月桂冠が戴かれている.これらはいずれも古代および中世の王権象徴を折衷したものであり, ナポレオンの権力が歴史的連続性の中に位置づけられていることを示している.足元には鷲の紋章が施された円形の絨毯が広がり, 鷲はローマ帝国および帝政フランスの象徴として機能している.
衣装は豪奢な戴冠式の装束であり, 白いビロードや金刺繍, 白貂[アーミン]の毛皮によって構成される精緻な質感描写が際立つ.アングルは線描を極度に洗練させることで, 装飾の細部に至るまで冷徹な明晰さを与えているが, その一方で人体の自然な量感や動勢は意図的に抑制されている.このような処理は, 彼の師であるジャック=ルイ・ダヴィッドの新古典主義的影響を受けつつも, より観念的で抽象化された権威表現へと踏み込んだものである.ダヴィッドが『アルプスを越えるナポレオン』[1801年]などで示した躍動的・英雄的な人物表現とは対照的に, アングルは運動を排し, 彫刻的な永続性を画面に与えている.
また, 本作にはビザンティン美術や中世の聖像画[イコン]を思わせる正面性と静止性が顕著であり, ナポレオンの姿はほとんど偶像のように画面に固定されている.黄金を基調とした色彩と左右ほぼ対称の構図がその宗教的荘厳さをさらに強化している.このため, 1806年のサロン出品時には審査員や批評家から「ゴシック的」「時代遅れ」といった批判を受け, 国家への正式な納品が一時難航したとも伝えられる.しかし後世においてはむしろその様式的折衷と象徴性の強度が再評価され, 19世紀肖像画史における特異な到達点として位置づけられるようになった.
本作は, 近代国家の指導者を古代的・宗教的権威の体系へと接続する試みであり, 肖像画でありながらイコン的性格を帯びた極めて特異な作品である.アングルはここにおいて, 写実的再現を超えて権力の理念そのものを可視化することに成功している.
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
