治承四(1180)年

1月

20日 皇太子言仁(安徳天皇)の魚始の儀が行われる

4月

9日 源頼政が以仁王から平家追討の令旨を得る | 27日 源行家が以仁王の令旨を伊豆の源頼朝に届ける

5月

10日 下河辺行平が伊豆の源頼朝に源三位頼政の挙兵計画を伝える | 15日 以仁王に配流の宣下が下る | 16日 以仁王の息子の若宮が八条院から六波羅に連行される | 23日 源氏と密接な関係にある三井寺園城寺の衆徒が平家追討の議論を行う | 24日 源三位頼政が中山堂と山庄を焼く | 26日 源三位頼政と以仁王は興福寺衆徒との連携を図るために奈良に向かう途上、宇治で戦死 | 27日 平家の軍が宇治の三室戸を焼く

6月

19日 京都の三善康信の弟が伊豆に配流中の源頼朝に京都の情勢を伝える | 22日 三善康清が伊豆から京都に戻る | 24日 源頼朝は安達盛長を関東中に派遣して譜代の御家人の招集を行う | 27日 源氏譜代の御家人である三浦義澄、千葉胤頼が京都を離れ伊豆へ向かう

7月

5日 源頼朝が覚淵を召して仏前に素願を表白させる | 10日 源氏譜代の御家人である波多野義常と鎌倉の山内首藤経俊が頼朝の招請に応ぜず | 23日 頼朝が住吉昌長と大中臣頼隆の祗候を許す

8月

2日 京都にいた大庭景親らが関東に戻る | 4日 藤原邦通に山木判官邸の絵図を描かせる | 6日 山木判官を襲撃する日時を占う | 9日 佐々木秀義が大庭景義から平家方の計画を聞く | 10日 佐々木定綱が伊豆の頼朝に平家方の計画を報告 | 11日 頼朝は佐々木定綱が知らせてくれたことに喜ぶ | 12日 山木判官に対する襲撃の日を17日に決定 | 13日 佐々木四兄弟が一度帰国 | 16日 頼朝、戦勝を祈願。また、佐々木兄弟の遅参にヤキモキする | 17日 洪水のために足止めを食らっていた佐々木四兄弟が到着。遂に山木判官を討つ | 18日 頼朝が法音尼に日々の勤行を託す | 19日 頼朝が山木判官の親戚である史大夫知親の日頃の非法を停止を命じる | 20日 頼朝一行が伊豆を出て相模国の土肥に陣を布く | 22日 源氏譜代の御家人である三浦一族が頼朝軍に合流するために出発 | 23日 石橋山の合戦 | 24日 敗れた頼朝は椙山に隠れる。箱根別当行実が弟の永実を頼朝に派遣。同日、合流を阻まれた三浦一族が鎌倉の由比ガ浜で秩父党畠山重忠と合戦に及ぶ | 25日 安田義定と工藤景光が俣野景久を攻める | 26日 三浦一族が本拠地の衣笠城を秩父党村山党に攻められ敗戦 。同日、渋谷重国が頼朝の弟の阿野全成を匿う | 27日 三浦義明が戦死。三浦一族、北條一族が安房に出立。加藤景員が息子二人い頼朝を追跡させる | 28日 はぐれていた加藤兄弟が大岡牧で再会。同日、頼朝は真鶴から安房に渡る。 | 29日 頼朝が安房の猟島に到着

9月

1日 頼朝が上総介広常を訪ねるために安西景益を招く | 2日 北條政子が伊豆山から秋戸郷に移る | 3日 頼朝のもとに、小山、下河辺、豊島、葛西氏が馳せ参じる | 4日 頼朝のもとに上総介広常、千葉介常胤が馳せ参じる | 5日 頼朝が洲崎明神に参詣 | 7日 木曾義仲挙兵。笠原頼直が木曾義仲を襲撃するも村山義直、範覚に阻まれる | 8日 北條時政が甲斐源氏らの挙兵を呼びかける使者として出発 | 9日 千葉介常胤が頼朝に鎌倉を本拠地とすることを勧める | 10日 甲斐源氏武田氏が信濃に侵攻。平家方の菅冠者が攻められて自刃 | 11日 頼朝、安房国丸御厨を巡見する | 12日 頼朝が洲崎明神に神田を寄進 | 13日 頼朝が上総に向けて出発。東胤頼と千葉成胤が上総目代を討ち取る | 14日 千葉成胤が刑部卿平忠盛の婿の千田判官親政を捕らえる

| 15日 甲斐源氏の武田信義、一条忠頼が隣国の信濃を平定。
信濃から帰国した武田信義、一条忠頼が源頼朝の使者・北条時政と甲斐逸見山で会談。

| 17日 頼朝は上総介広常を待たずに上総に向かう。千葉介一族が国府に集結。千葉介常胤が毛利頼隆を御家人に推薦 | 19日 上総介広常が頼朝のもとに馳せ参じるも頼朝が遅参に怒る | 20日 土屋宗遠が甲斐に使者に発つ | 22日 小松少将平維盛が出陣の準備を行う

| 24日 甲斐源氏の武田信義、一条忠頼が土屋宗遠と駿河への侵攻を合議

甲斐源氏

| 28日 頼朝が秩父党を味方とするために江戸重長を陣に招く | 29日 頼朝が戦死した佐奈田与一の母を保護。小松少将平維盛が関東に向けて出発 | 30日 新田義重が頼朝の招請に応ぜず。足利俊綱が上野国府を焼き討ち

10月

1日 駿河目代橘遠茂が侵攻する甲斐源氏を迎え撃つ | 2日 頼朝、武蔵国に入る。小山宗朝が元服。 | 3日 千葉介常胤が伊北庄司常仲を討伐 | 4日 秩父党の畠山重忠、河越重頼、江戸重長が帰伏 | 5日 頼朝、武蔵国諸雑事を江戸重長に命じる。秩父党棟梁の座が江戸氏に移ったことを追認 | 6日 頼朝が相模国に入る | 7日 頼朝が鶴岡を遥拝 | 8日 足立遠元に恩賞 | 9日 鎌倉殿の建築工事始まる | 11日 北條政子が鎌倉入り | 12日 鶴岡八幡宮を由比ガ浜から小林郷に移す | 13日 木曾義仲が上野国に侵攻。北條父子が駿河国へ出立

| 14日 甲斐源氏武田氏が長田父子を討ち、駿河目代橘遠茂を捕らえる。

鉢田の戦い

8月25日の波志田山合戦で安田義定が駿河目代橘遠茂を打ち破ると甲斐国は甲斐源氏が支配するところとなる。甲斐源氏の棟梁である武田信義・一条忠頼父子は信濃に侵攻し平家勢を討伐すると、源頼朝の派遣した北条時政・土屋宗遠と会談し駿河への侵攻を決定。

武田信義・一条忠頼・板垣兼頼・武田有義・安田義定・逸見光長・河内義長・伊沢信光が出陣し、富士山麓若狭路にて加藤光員・景廉が加わる。

対する駿河勢は鉢田に進軍し激突。駿河勢を率いる駿河目代橘遠茂は捕虜となり、長田入道は討ち取られた。

| 15日 頼朝が鎌倉殿入り | 16日 頼朝が駿河国に向けて進軍 | 17日 波多野義常が松田郷で自害 | 18日 頼朝軍、足柄を越えて黄瀬川に到着 | 19日 伊東祐親が囚われる。加々美長清が頼朝のもとに馳せ参じる | 20日  富士川の合戦。平維盛軍、合戦の前に総崩れとなる | 21日 上洛を果たそうとする頼朝を千葉、三浦が諫止。義経と頼朝の再会 | 22日 飯田家義、戦功を賞される | 23日 平家方の大庭景親が降伏 | 27日 頼朝、佐竹討伐のために常陸国へ進軍

11月

2日 富士川の合戦で敗れた小松少将平維盛が京都に戻る | 4日 上総介広常が佐竹義政を騙まし討ち。義政の弟の秀義が金砂城に篭城 | 5日 佐竹義季が頼朝方に寝返り | 6日 佐竹秀義が金砂城を放棄し奥州花園城に落ちる | 7日 上総介広常が戦勝報告。志太義広と源行家が頼朝のもとへ | 8日 佐竹義政の家人岩瀬与一太郎を赦免し御家人とする。頼朝、小栗重成の館へ | 10日 葛西清重に丸子庄を安堵 | 12日 荻野俊重を斬罪に処す | 14日 土肥実平を武蔵国に派遣して狼藉を取り締まらせる | 17日 頼朝、鎌倉に帰る。和田義盛が侍所別当に任ぜられる | 19日 武蔵国長尾寺を全成に安堵 | 20日 大庭景義が松田義常の子の恩赦を乞う | 26日 山内首藤経俊が老母の愁訴によって助けられる

12月

1日 平知盛が近江国に山本義経、柏木義兼を攻める | 2日 平重衡が関東に発つも途中で引き返す | 4日 阿闍梨定兼を鶴岡供僧職に任命 | 10日 山本義経が鎌倉殿(源頼朝)の臣下となる | 11日 平重衡が三井寺園城寺と合戦 | 12日 頼朝が新造の大倉亭に移る | 14日 武蔵国の本知行地主職を元通りに執行 | 16日 鶴岡八幡宮若宮に鳥居が立つ | 19日 橘公長父子が鎌倉御家人となる | 20日 三浦義澄が椀飯 | 22日 新田義重、里見義成が鎌倉入りし家人となる。斉藤実盛、瀬下広親が恩義のために上洛 | 24日 木曾義仲が信濃へ | 25日 平重衡、南都攻めに出発 | 26日 囚われていた佐々木義清を兄の盛綱に預ける | 28日 平重衡が東大寺と興福寺を焼き討ち

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.