1184年1月8日 戊戌

上総の国の一宮(玉前神社)の神主らが、亡き上総介広常が生きていた時に宿願があったと届け出る。

前年に上総介広常は一宮に謀反の宿願を行った疑いありということで、梶原景時によって誅されている。広常は甲を一宮の宝殿に納めたという。

武衛(鎌倉殿;源頼朝)が使節を派遣してその宿願を見させる。果たして広常に謀反の心があったかどうか。派遣したのは藤判官代一品(昌寛)房らで甲を二つ持たせた。これは広常が奉納した甲は既に神宝であるために単に差し出せとは言えないため二つの甲で広常の甲と取り替えることで神の祟りはないだろうという趣旨。


藤判官代:源頼朝の側近の大和判官代藤原邦通のこと。源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としていた安達盛長の推挙によって源頼朝に仕えた。

桓武平氏大掾氏の庶流和泉守・平信兼の子で伊豆国目代に任じられていた山木兼隆を源頼朝が討つ際に、山木兼隆の館に泊まり館の絵図を持ち帰った人物としても知られる。

藤原俊兼(筑後権守俊兼)が源頼朝の右筆となるまでは大江広元と並んで重用された。

昌寛:鎌倉時代前期の僧であり、源頼朝の右筆を務めた人物。

娘は第2代鎌倉幕府将軍 源頼家の側室となり、三男栄実(千手丸)、四男禅暁をもうけている。

千手丸は、源頼家の没後は尾張中務丞によって養育されていたが、建保元年(1213年)2月に信濃の泉親衡によって擁立される(泉親衡の乱)。乱が鎮圧されると、祖母北条政子の命によって出家させられ栄実として、臨済宗の開祖・明菴栄西の弟子となった。

建暦3年5月(1213年5月)に侍所別当・和田義盛が第2代執権北条義時の挑発に乗って和田の乱を起こす。これは、泉親衡の乱への連座を疑われて和田義盛の子・義直と義重、甥の胤長が逮捕され、義直と義重は赦免されたものの、胤長は赦されず陸奥国岩瀬郡に配流となったことが原因とされている。

胤長の鎌倉の館は和田義盛に一旦は下げ渡され代官・久野谷彌次郎が派遣された。しかし、北条義時は久野谷彌次郎を館から追い出し、泉親衡の乱平定で戦功のあった金窪行親・忠家に和田胤長の館を与えた。

この挑発によって和田の乱が勃発。和田義盛は敗れて和田一族は、北条義盛に与して戦死した義盛の甥・和田重茂の一族以外は滅亡した。なお、和田重茂の一族には越後奥山荘が安堵され、揚北衆の一つ和田党を形成していく。

さて、建保2(1214)年に、和田義盛に与した残党が京都にいた栄実を擁立したとされる。残党は掃討され、栄実は自害したともされる。

禅暁は建保7(1219)年正月に、異母兄の公暁が叔父で第3代将軍・源実朝を暗殺した事件に連座して京都東山にて、承久2(1220)年4月14日に誅殺された(『仁和寺御日次記』)。

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.