長剣梅鉢

肥後国南部を支配した大名・相良氏の家紋.

相良

藤原南家為憲流工藤氏庶流.工藤維兼,もしくは,その孫・工藤周頼を祖とする[『寛政重脩諸家譜』].遠江国相良荘が発祥の地.伊東氏とも姻戚関係.

治承・寿永の乱において,相良頼景は平家方として戦い敗れて領地没収となる.そして,平家没官領の肥後国球磨郡多良木荘の矢瀬氏に預けられたと考えられている.その後,相良頼景は源頼朝に許され,多良木荘を領する.

相良頼景から家督を相続した長頼は,元久2[1205]年7月,北条義時に従って二俣川の戦いで畠山重忠を討ち取った戦功により,肥後国球磨郡人吉庄の地頭職に補任される.これを契機として,相良頼景は一族を引き連れて遠江国相良荘から肥後国に入った.但し,遠江国相良荘に残った相良一族もあり遠江相良氏と呼ばれる.一方で,肥後国球磨郡多良木荘に入っていた一族は上相良氏,人吉荘の相良氏は下相良氏と呼ばれることとなる.

南北朝時代には,上相良経頼は南朝の菊池氏に,下相良頼広・定頼父子は足利方として相剋.やがて,上相良経頼はは足利方に帰順.

文安5[1448]年,下相良長続[1411-1468]が上下相良氏を統一.相良義滋[1489-1546]は激しい家督争いを勝ちぬき,上村城主・上村頼興[1490-1557]の補佐を得て戦国大名としての礎を築く.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.