狩野探幽

 「京都における徳川幕府の出城とでも言うべき二条城。
その二条城における将軍の宿所が国宝にも指定されている『二の丸御殿』。
大書院造りの二の丸御殿の中で、諸大名と将軍との対面の儀式が執り行われた。
その場を飾るというか、諸大名を睨むかの如くに配されたのが狩野探幽の手による松鷹図。
狩野派は室町時代から、宮廷画家とも言える御用絵師としての家柄を誇る名門。しかし、松鷹図を描きあげた時、狩野探幽はわずか22歳。その歳で、狩野派一門11人を率いて二の丸を飾った。
22歳というと驚くべきことだけど、そこは狩野派の名門のエリート。狩野派伝来の「粉本」と呼ばれる手本に学び、父である孝信をして天才と言わしめている。その言葉に違うことなく、11歳で駿府城の徳川家康にお目通り。12歳の時に「渡唐天神像」を描いてデビュー。16歳で将軍家の御用絵師としての地位を得る。
これは、いくら狩野家が御用絵師の家柄とは言っても異例中の異例と言われている。それだけ探幽に才能があったということだろう。
探幽は二条城で狩野派の伝統を受け継ぎながら『黄金の余白』という独自の無の境地にも達している。わずか22歳で、これだから凄い。祖父の狩野永徳も舌を巻くほどの美の力とでも言いましょうか。
探幽はただの天才であったわけではありません。努力の天才でもありました。
常人を超える努力の跡は、鑑定を依頼された絵画を片端から模写したものとされ、模写の数を一万を越えると言われる『探幽縮図』に見ることが出来ます。
狩野探幽、それは狩野派最後の飛躍と言っても過言ではないでしょう」