[ 公 事 師 ]

 「弁護士制度というと明治以降でその前までは似たようなものはなかった。
 西洋の法制度が日本に導入されて始めて日本にも訴訟のための制度が整備されたように思われている節があるけど違うね。
 この辺りは瀧川博士が精力的に研究したところだよね。」
 「テレビの時代劇の『水戸黄門』で倉敷の公事宿のことが取り上げられたでしょ。だから、今では江戸時代にも弁護士に相当する制度があったってことは知られているんじゃないかしらね。」
 「全く同じかと言われるとそうではないけどね。
 ともかくも、法律事務所に相当する公事宿というのは、奉行所のあった城下とか郡代、代官の陣屋の近くには当然のように1から2軒はあったって言われている。今で言うと、裁判所の近くに法律事務所があるようにね。」


[江戸城常盤橋]

 「公事宿というのは『江戸時代、地方ヨリ、江戸ニ出デテ訴訟スル者ノ、定宿トセシ旅店。』っていわれているけど、江戸では馬喰町に多かったっていわれているわね。」
 「確かに、まとまっていたのは馬喰町って言われているね。
 関東郡代伊那半左衛門の役宅があったからね。関東郡代といえば、関八州の天領の公事訴訟を担当する裁判官。江戸城本丸辰ノ口にあった幕府最高裁判所の評定所(和田倉御門内辰ノ口評定所)の下に位置するから法律事務所も多かったろうね。
 でもね、『古事類苑』の『諸問屋再興調』には公事宿の組合として、馬喰町小伝馬町旅人宿組のほかに、八拾弐軒百姓宿組と三十軒百姓宿組を挙げているんだ。これからすると、八拾弐軒百姓宿組が規模としては非常に大きいよね。
 そして、この八拾弐軒百姓宿組は評定所のすぐ近くの常盤橋から鎌倉河岸にかけてあったと言われているね。高窪博士の説だけど。」
 「常盤橋だと、新日本製鐵の本社のところよね、新日鐵本社のことを呉服橋っていうでしょ、今は無くなってしまっているけどあの辺りが呉服橋よね。
 そして、その呉服橋門内、今の丸の内1丁目に置かれたのが北町奉行
 常盤橋門はその両者に近いから公事宿が多かったのも当然よね。」
 「お昼休みに歩いていける距離に数寄屋橋門があってその門外、今で言うと有楽町2丁目に南町奉行が置かれていたし、日建連ビルの近辺は八丁堀だ。与力南北各25旗、同心南北各140人が住んでいたね。」
 「江戸時代の訴訟は@出入物(でいりもの)とA吟味物(ぎんみもの)に分かれていたけど、公事師が関係したもののほとんどは民事訴訟に相当する出入物ね。前代だと雑訴ね。」
 「刑事訴訟にあたる吟味物もなかったわけじゃないけどね。
 出入物の場合は、原告である訴訟人が目安(訴状)で相手方(被告)を訴えて、裁判官にあたる奉行が裏書をして、その相手方(被告)を白洲(法廷)に召喚のうえ、返答書(答弁書)を提出させて、」
 「対決、つまりは口頭弁論をして、糺という審理を行ったうえで裁許(判決)を言渡したのよね。
 公事師は、白洲への召喚状である差紙(さしがみ)を伝達したり、公事訴訟人の付き添いをしたり、逃亡防止のための宿預を仕事としていたわ。」
 「それだけじゃないよね。
 消防の任務も負っていたね。これなんかは、良く米国で弁護士が行う奉仕活動に似ていなくもないね。」