[倉敷下津井屋事件]

 テレビの水戸黄門の第30話(2002年5月6日)で助三郎(岸本祐二)が以前『公事宿』[注1]を営む仁兵衛の宿に泊まり、娘おきぬ(中島ひろ子)が助三郎に恋をしたというエピソードが出てくる。
 倉敷の前身は倉敷村で、紀国屋小野家を中心とする古禄13軒[注2]が発展に寄与した。
 倉敷浅尾騒動で当主が討ち取られた下津井屋阿部家は古禄13軒に代わって勢力を伸ばした新禄派と呼ばれる家々に属する。
 この倉敷浅尾騒動は下津井屋事件が伏線として関係する。
下津井屋事件は、中島屋大橋家分家で佐用郡上月村の大庄屋大谷五左衛門嘉道の長男敬之助が下津井屋の米横流しを倉敷代官所に告発するものの、新代官となった櫻井が下津井屋の親戚の小山家の賄賂によって下津井屋を釈放したことに契機を持つ。
 その後、下津井屋の嫌がらせで、敬之助は倉敷を出た直後に、小山家土蔵(現在の考古館)の前の川に下津井屋親子の首が浮かぶという結末を迎える。
 この下津井屋事件は敬之助が起こしたものではないとされるが、敬之助と同じく勤皇派の人間が下津井屋を誅したとされる。
 倉敷浅尾騒動は、この敬之助が長州の奇兵隊の一部を引き連れて、積年の恨みを晴らすべく倉敷の櫻井代官を襲撃するも、代官不在であったために浅尾藩邸を襲撃したというもの。
 結局は浅尾陣屋襲撃後(当時藩主は不在)、幕府軍艦の砲撃などによって敬之助の率いる奇兵隊は散々になり、敬之助自身は周防で備中高松城主清水宗治の子孫で毛利家家臣の清水家の手の者によって誅殺される。
 
[注1]江戸時代に訴訟や裁判の為、地方から出てきた人を宿泊させた宿屋。公事人宿、出入宿、百姓宿とも呼ばれたが、いずれも俗称であり法令上は「江戸宿」「郷宿」と呼ばれた。
 宿の主人、番頭、手代等が地方から奉行所に訴えに来た者に代わって訴訟事件手続をしたために公事師と呼ばれた。
[注2]紀国屋小野家(阿知神社宮司家)、播磨屋原田家、蔦屋岡家、俵屋岡家、銭屋岡家、坂口屋岡家、和泉屋岡家、瀬尾屋藤井家、油屋吉田家、宮崎屋井上家(高畠和泉守子孫)、華屋井上家、大島屋大島家、井筒屋水澤家(かつての備中一富豪)の13家
/*8月29日(木曜日)記*/