[町奉行所]


東京駅八重洲口にある北町奉行所跡の碑
江戸城常盤橋門跡

 江戸時代において、町奉行というと江戸の町奉行を指します。町奉行自体は他にも置かれましたが、地域名称を冠して呼ばないというのは江戸の町奉行だけです。
 この町奉行は、慶長9(1604)年に、土屋権右衛門重成が南組奉行、米津勘兵衛由政(慶長9年〜寛永元年)が北組奉行に任じられたのが始まりとされます。このとき、南組奉行は八重洲河岸に、北組奉行は道三川岸に置かれました。ちなみに、道三川岸の道三というのは幕府に仕えた御典医の道三に由来します。この河岸は現在でいうと、野村ビルと新大手町ビルの間の道に当たります。
 この北組奉行、南組奉行は、寛永8(1631)年には北町奉行、南町奉行となり、それぞれ加賀爪忠澄と堀直之が任命され月番制が敷かれることになります。南町、北町といていますが、月番制であるということからも分かるとおり、その名称は管轄する地域を示しているのではありません。奉行は最高裁判所である評定所(和田倉御門内辰ノ口評定所)を構成する重要な役職でした。また、元禄15(1702)年に中町奉行が置かれるまでは定員は2名でした。南北中町3奉行制は享保4(1719)年に呉服橋門内(現新日本製鐵本社付近)の南町奉行所が廃止され、中町奉行所(鍛冶橋門内)が北町奉行所に、北町奉行所(数寄屋橋門内。なお、宝永4(1707)年までは常盤橋門内。)が南町奉行所とした。これもまた、文化3(1806)年には、北町奉行所が当初の常盤橋門内に戻って幕末を迎えています。