秩父巡礼(3)

[22番 華台山 童子堂]


 お昼は西武秩父の駅の仲見世でと考えていた。
といってもお腹が減っていなかったわけではなく。単にお店が回りになかっただけだ。
 というわけだから、童子堂の入り口に「キャッツアイ」を見つけたときは選択の余地などあるわけがない。
  そうして天麩羅定食を注文する。何やら手に呪文のようなものをたくさん書き込んだ女性が注文をとった。
 しばらくして昼食にありつく。これが思っていたより美味しい。いや、思っていたよりというのは正しくない。単に美味しいのだ。形容詞はない。
 これは思わぬ成果と言える。
 さて、22番の童子堂、本来の名を「栄福寺」という。
それがなぜ童子堂と呼ばれるのか理由がある。その昔、讃岐の農夫が行脚僧に施しをしなかった因果で子が犬になってしまった。農夫はたいそう嘆き悲しんで、必死の思いで、四国、西国、坂東霊場を経巡り、童子堂に至って息子ははれて人に戻ったという。
 それゆえの童子堂なのだ。
ここはまた後北条の城[永田城]があったところとしても知られている。

秩父市大字寺尾3595
ここまで9月21日

[12番 仏道山 野坂寺]
 西武秩父の駅から市役所前の大きな通りへと出て、小学校のある三本目の交差点を右に曲がったところの奥に位置する。
 一応、駅で配られている地図、これは前回も使用したものをそのまま持参したが、その地図は持ってはいた。とはいえ、念のために駅前の観光案内所に立ち寄る。


秩父に着いたのがまだ朝の8時前だったので観光案内所は当然のように固く入り口が閉められていた。
 そこで、次善の策として観光案内所の横の交番で道を尋ねる。
ここに居たのが非常に親切なおわまりさん。しかも、若々しく凛々しい。非常にと形容したのにはそれなりの理由がある。この交番で駅で入手した地図とは別の地図を戴いた。こうして合計2枚の地図を持って、少し歩いてから今日の計画を改めて確認する。と、先ほどのおまわりさんが走ってこちらにくるではないか。
 「私の説明で道がわかりましたか?」
恐縮至極である。当方、教えてもらった道が分からなかったわけではないので、その旨を告げて感謝の意を改めて表す。
 秩父はなかなかいい場所だ。

 さて、野坂寺のことである。
秩父の地は奥武蔵と言われる。なるほど、武蔵国の西方のはしに位置し甲斐国に隣接している。ついでにいうならば、現在は東京都に属している奥多摩にも名栗から抜けると非常に近い。これらの地域は埼玉、東京、山梨と今は別の都県の下にあるがもともとは同じ生活圏ではなかったのではないか。
 話がそれた。
この野坂寺の由来が甲斐国と関係があるという。繰り返しになるが、野坂寺のある秩父は昔から武州であり、武州の揺籃の地とも言える。その地に甲州のあきんどが赴き、野坂寺のあたりで盗賊に襲われた。あきんどは盗賊に命を取られまいと、身に付けていた観音像を手にして「南無観世音」と一心不乱に唱えた。すると、摩訶不思議なことに、観音像からオーラが発せられあたり一面が眩いばかりに照らされた。これに驚き、惧れをなしたのが盗賊である。泣く子も黙るような厳つい顔つきの盗賊であったが、心根は顔つきほどには悪くなかったのであろう。観音像のオーラに照らされて心を入れ替え、あきんどに詫びるとともに即座に出家した。
 あきんどもまた信心深かった。
出家に及んだ盗賊を見て、堂宇を建立し観音像を安置したという。
 それが野坂寺である。

[26番 万松寺 円融寺]


 地図で見ると12番の隣りにあるので線路づたいに26番に至る。
少し奥まったところにあったので、不覚にも道を失う。ところが、ここでも親切な秩父の人に巡りあった。その老人は円融寺へと至るひっそりとした道を教えてくれただけではない。この老人から教わったとおりに行くと意外に近くに円融寺はあった。門の前まで至って振り返る。なんと親切なご老輩がいるではないか。
 秩父はなんと良いところなのだろうか。

埼玉県秩父市下影森348

[27番 竜河山 大渕寺]
 弘法大師ゆかりの寺という。
 本尊は観音像だが、この観音像は宝明という僧がこの地で病に倒れた際に弘法大師が彫り与えたものと伝えられる。大淵寺はその宝明の建立による。
 ここはまた、高崎観音・大船観音とともに関東三観音の一つでもある。

秩父市上影森411