スペインのペドロ・サンチェス首相(Pedro Sánchez)率いるサンチェス政権は、2018年に起きた政権交代によって成立した。当時の首相マリアーノ・ラホイは、中道右派の国民党(PP)を率いていた。ラホイ政権は2011年に発足し、欧州債務危機後の財政再建、労働市場改革、金融システムの安定化などを進めていたが、2017年のカタルーニャ独立問題や国民党をめぐる汚職事件によって政治的な打撃を受けていた。
2018年5月、国民党が企業から不正な資金を受け取っていたと認定されたグルテル事件をめぐる裁判所の判決が出ると、野党の社会労働党(PSOE)はラホイ首相に対する不信任決議案を提出。スペインの不信任決議は、現職首相を退陣させるだけではなく、後継首相を同時に指名する「建設的不信任」の仕組みである。2018年6月1日、この決議案が下院で過半数の賛成を得て成立し、ラホイは退陣、PSOE党首のペドロ・サンチェスが首相に就任した。これは1978年憲法下のスペインで初めて成立した不信任決議であり、右派の国民党政権から左派の社会労働党政権への政権交代でもあった。
ただし、2018年に発足した最初のサンチェス政権は、後に成立する左派連立政権とは性格が異なっていた。PSOEは下院で過半数を持っておらず、サンチェスは少数政権として出発したのである。そのため、法案や予算を成立させるためには、バスクやカタルーニャなどの地域政党を含む他党の協力が必要だった。2019年には予算案を成立させることができず、国会を解散して総選挙に踏み切ることになった。
2019年4月と11月の二度の総選挙を経ても、スペインでは単独政党による安定した過半数が形成されなかった。この状況は、従来の国民党と社会労働党という二大政党を中心とした政治構造が崩れ、ポデモス、シウダダノス、Vox、さらに地域政党などが議会政治で大きな役割を持つようになったことを示している。特に左派では、PSOEよりさらに左に位置するポデモスが台頭しており、サンチェスは政権を維持するためにこの勢力との協力を選択した。
その結果、2020年1月、PSOEとウニダス・ポデモスによる連立政権が発足した。これは1978年の民主化後、スペインで初めて成立した本格的な連立政権であり、サンチェス政権はここで第二段階に入った。ポデモスからはパブロ・イグレシアスが副首相として入閣し、後にヨランダ・ディアスが労働・社会経済相、副首相を務めるなど、左派勢力が政府の政策決定に直接関与するようになった。2020年の最低賃金引き上げは、この連立政権の社会政策を象徴する政策の一つであり、月額最低賃金を950ユーロへ引き上げることが決定された。
サンチェス政権の政策的特徴は、社会民主主義を基礎にしながら、左派政党との連立によって社会政策を強化した点にある。最低賃金の引き上げ、年金の改善、労働者の権利強化、ジェンダー平等、公共サービスの維持などが主要な政策課題となった。特に労働市場では、スペインで長年問題となっていた有期雇用への過度な依存を縮小し、安定した雇用を増やす方向へ制度を変更した。これは単なる賃金政策ではなく、スペイン経済に長く存在した「正規雇用と不安定な有期雇用」という二重構造を是正しようとする改革であった。
同時に、サンチェス政権はEUのグリーン政策と歩調を合わせ、再生可能エネルギー、電力網、グリーン水素、デジタル化などへの投資を進めた。新型コロナウイルス危機への対応では、EUが創設したNextGenerationEUの復興資金を大規模に活用し、スペイン経済のデジタル化と脱炭素化を進める投資計画を策定した。このためサンチェス政権は、国内の社会政策だけでなく、EUの経済・産業政策とも結びついた政権として位置づけられる。
しかし、サンチェス政権にとって最大の政治的難題は、経済政策以上にカタルーニャ問題であった。2017年、カタルーニャ自治州政府が独立を問う住民投票を実施し、その後独立宣言に至った。このことから、中央政府と独立派の対立はスペイン政治を揺るがす国家的危機となった。ラホイ政権が憲法秩序の維持を優先して強硬に対応したのに対し、サンチェスは首相就任後、独立そのものを認めることは拒否しながらも、独立派との対話を重視する方向へ政策を転換した。
この転換は、理念だけから生じたものではない。スペインでは総選挙を繰り返しても一つの政党が過半数を確保できない状況が続き、サンチェス政権はカタルーニャの地域政党を含む複数政党の協力なしには議会運営ができなかったからである。つまりカタルーニャ問題は、国家統一をめぐる政治問題であると同時に、サンチェス政権の存続を左右する議会政治の問題にもなった。
この構造が決定的になったのが2023年の総選挙である。選挙では国民党が議席数で第1党となったものの、国民党のアルベルト・ヌニェス・フェイホー党首は首相就任に必要な議会の支持を確保できなかった。その後、サンチェスはカタルーニャ独立派を含む複数の地域政党と合意を結び、2023年11月に首相に再任。スペイン政府によれば、この際の議会支持にはPSOE、スマルだけでなく、ERC、Junts、EH Bildu、PNV、BNG、カナリア連合などが関わっていた。
ここで重要になるのが、カタルーニャ独立運動関係者に対する恩赦である。サンチェスは政権発足のための政治的合意の一環として恩赦法を進め、2024年に成立させた。政府側は、2017年以降のカタルーニャ問題によって生じた政治的対立を終わらせ、社会的・政治的な和解を進めるための措置だと位置づけた。一方、国民党やVoxなどの右派勢力は、政権維持のために国家の統一や司法制度を犠牲にしたものだとして強く批判した。この恩赦問題は、現在のスペイン政治における「社会政策をめぐる左右対立」とは別に、「スペインを単一国家として維持するのか、地域の自治・独立要求をどこまで認めるのか」という国家統合をめぐる対立を浮き彫りにしている。
2023年以降の政権では、ポデモスではなくスマル(Sumar)がPSOEの主要な左派連立パートナーとなった。ポデモスは左派勢力の再編過程でスマルと関係を持ったものの、最終的にはスマルから離れて独自路線を取っている。
サンチェス政権のもう一つの特徴は、EUにおけるスペインの存在感を高めたことである。コロナ危機後のEU復興基金を利用して国内投資を拡大したほか、2022年のエネルギー危機では、スペインとポルトガルが電力市場の特殊性を理由にガス価格の影響を抑えるイベリア例外措置をEUから認められた。スペインは再生可能エネルギーの導入余地が大きいこともあり、EUのエネルギー転換政策において存在感を高めている。
もっとも、サンチェス政権の政治的基盤は安定しているわけではない。サンチェスは2018年の就任以来、一度も単独で議会過半数を持つ政権を率いておらず、少数政権として他党との交渉を続けてきた。そのため、政策を実現する能力は、PSOEとスマルの連立関係だけでなく、カタルーニャやバスクなどの地域政党との個別の合意に大きく左右される。2023年以降の政権でも予算や重要法案の成立は容易ではなく、議会での法案否決が政権運営を直接揺さぶる構造が続いている。
そして2026年、この政治構造は再び大きな転換点を迎えている。2026年10月、住宅価格と家賃の上昇が社会問題となる中、政府が提出した住宅関連措置が議会で否決され、サンチェスは11月29日に前倒し総選挙を実施すると発表した。住宅問題だけでなく、移民政策、汚職疑惑、カタルーニャ恩赦なども政権をめぐる主要な争点となっている。
第1版:2026-10-06.
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