大化の改新 問題篇

大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇2年春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。【A】(後の天智天皇)らが【B】を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったという。

しかし、大化の改新といわれる一連の改革は、『日本書紀』編者による創作ないしは後世の過大評価であるとし、その存在を疑う説が近年提示されている。

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、【B】の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(天皇家)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子と接触するも、その器ではないとあきらめる。

そこで鎌子は、【A】に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。【A】は、蝦夷・【B】に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて【A】や中臣鎌足らが実行犯となり【B】を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。

この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変(いっしのへん)という。

解答はここ

出典:wikipedia


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