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上総武田氏
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3 (2009-10-30 (金) 06:11:29)
千葉県
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戦国期の下総千葉氏
上総武田氏
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1416年 応永23年
上杉禅秀の乱
において武田信満は禅秀方として戦い敗れる。
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1417年 応永24年
武田信満は上杉憲宗の攻撃を受け自刃。子の武田信重と叔父・信元は高野山に追放される。
武田一族の逸見有直が鎌倉公方・足利持氏の支持を受け甲斐を実効支配。
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1426年 応永33年
武田信満の子・
武田信長
が逸見有直を甲斐より武力追放。
猿橋の戦い
:鎌倉府は一色持家を派遣し
武田信長
を鎮圧。
以降、
武田信長
は鎌倉公方・足利持氏に臣従し奉公衆となる。
室町幕府将軍・足利義政は鎌倉公方・足利持氏の推す逸見有直ではなく、高野山に追放されていた武田信元を甲斐守護とする。
※信元の子は早世したため、
武田信長
の子・
伊豆千代丸
が嗣子となる。後に、武田信元家臣の跡部明海が実権を握り、これを武田信重が討ち取り甲斐守護となる。
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1438年 永享10年
永享の乱
8月:関東管領・上杉憲実が鎌倉公方・足利持氏と対立し分国である上野国平井城に逃れる。
鎌倉公方・足利持氏が一色直兼に関東管領・上杉憲実討伐を命じ、武蔵府中高安寺に陣を布く。
室町幕府第6代将軍・足利義教が篠川公方・足利満直(持氏の叔父)と駿河守護・今川範忠および上杉禅秀の子・上杉持房、上杉教朝(後に堀越公方の関東執事。越後の山本寺氏の祖)を幕軍として関東管領・上杉憲実救出のために派遣。
武田信長
は上杉方(=室町幕府軍)として参加。
9月27日:今川範忠が足柄山を越山。上杉持房も箱根越え。
10月4日:鎌倉を守っていた三浦時高が幕府側に付き、鎌倉に改めて侵攻。鎌倉公方足利持氏は退却の途上、上杉憲実の家宰・総社長尾忠政と白井長尾景仲の軍門に降り鎌倉の永安寺に幽閉される。
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1439年 永享11年
2月10日:室町幕府第6代将軍・足利義教が鎌倉公方・足利持氏の討伐を命じる。持氏と叔父の稲村公方・足利満貞は永安寺にて自刃。持氏の嫡子・義久は報国寺にて同じく自刃。
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1440年 永享12年
結城合戦
室町幕府方
関東方(結城城篭城)
総大将
上杉清方
鎌倉公方遺児・春王丸、安王丸
諸将
今川範忠、長尾実景
武田信長
結城氏朝、結城持朝
里見義実
結城城は落城し、春王丸、安王丸は落ち延びる途上、長尾実景によって美濃で討たれた。
幕府方の篠川公方・足利満直は結城方に討たれた。
室町幕府第6代将軍・足利義政は
結城合戦
の祝勝会の場で赤松満祐によって暗殺された
嘉吉の乱
。
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1454年
享徳の乱
武田信長
は鎌倉公方・足利成氏の宿老として
相模島河原合戦
、
武蔵崎西城攻め
で大将を務める。
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1455-56年
市川合戦
千葉城落城
上杉方
古河成氏方
千葉氏内部
当主・千葉胤直・胤宣父子(自刃)
胤直の弟・胤賢(自刃)
胤賢の子の千葉実胤・自胤兄弟は千葉城から市川城へ落ち延びる。
千葉胤直の叔父・馬加康胤
小弓城主の原胤房
市川城落城
上杉方
古河成氏方
千葉氏内部
千葉実胤・自胤兄弟は
武蔵石浜城・赤塚城に落ち延びる。
千葉胤直の叔父・馬加康胤
小弓城主の原胤房
千葉氏内訌の間隙を突いて、古河公方・足利成氏は里見義実に安房攻略を、
武田信長
に上総攻略を命じる。
↑
系譜