田村家 一関藩奥州一関藩の田村家の家紋は「田村茗荷」。阿弖流為を討伐した征夷大将軍坂上田村麻呂(758-811)を祖とする。但し、鎌倉時代から南北朝時代には藤原姓の田村庄司家が田村地方を支配し、室町時代になると平姓の田村家が取って代わった。両家は同じだとも違うとも言われているが密接な関係はあったとされる。1504年には田村義顕が三春城を築いて居城とした。田村家は伊達家と葦名家に挟まれて苦しい立場にあったが、田村隆顕は伊達稙宗の娘を妻とし、その子の田村清顕も伊達政宗に娘の愛姫を嫁がせ伊達家の後ろ盾を得た。これ以降、田村家は実質的に伊達政宗が支配。豊臣秀吉による田村家改易を経て、愛姫の遺言によって伊達政宗の子忠宗の宗良が田村藩を再興させた。 3万石、外様 柳間、城主格 歴代藩主
上屋敷跡都営三田線の御成門駅から西へいったところが、一関藩(現在の岩手県内)藩主田村右京太夫の上屋敷跡。現在は、多数のオフィスビルが立ち並ぶが、ここは播州赤穂藩藩主浅野内匠頭長矩が切腹したところ。 元禄14(1701)年、江戸城松之廊下にて、高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に刃傷に及んだ勅使接待役浅野内匠頭長矩は即日切腹の沙汰となり、 「風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとやせむ」と詠んで果てた。 当時の武家法では、喧嘩両成敗が原則のところ、吉良家には何らの咎めも受けず、しかも、播州赤穂浅野家は後に廃絶となったことから、赤穂浪士による討ち入りを招く。
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