歴史年表

壬申の乱

660年代後半都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子とする。
671年11月26日天智天皇が自身の皇子である大友皇子を太政大臣とする。
672年1月10日近江宮において天智天皇が46歳で没する。
7月27日大海人皇子は吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃亡。
-大伴吹負が近江朝に叛旗。
7月7日村国男依らに率いられた大海人皇子側の部隊が息長の横河で戦端を開く。
7月22日(8月23日)瀬田橋の戦いで近江朝軍敗れる。
7月23日(8月24日)大友皇子が自決。
673年2月大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位。

参考文献

古代史最大の争乱、壬申の乱。大海人皇子が辿った道を訪ねて、大津宮から吉野宮へ。美濃を拠点に再び大津へ。さらに大和・河内の全戦線を追体験。豊富な地図と写真を収め、古代の風を感じる歴史の旅へ誘う。
六七一年十月、天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)は王位継承を断わり吉野に隠棲。翌月、天智の子大友皇子は大海人を討つべく五人の重臣と盟約を結んだ。天智後継の座をめぐる壬申の乱の発端である。天智は大友かわいさで大海人を疎外したのか。大友は絶えず後手にまわり敗れ去ったのか。王位継承をめぐる対立はなぜ大規模な戦争に発展したのか。通説を再検討し、古代最大といわれる攻防のドラマを再現、その歴史的意義に迫る。
古代史最大の争乱・壬申の乱は、なぜ東西日本の分岐点で勃発したのか。「二つの日本」という視点から読み解く古代史の意外な真相とは。
西暦672年、古代史最大の争乱・壬申の乱が勃発した。この争いは天智天皇亡き後、大海人皇子と大友皇子が皇位継承権を巡り対立、日本を東と西に二分する争いに発展したのは有名だ。ところが、軍事的に劣勢であった大海人皇子が、なぜ勝者となり得たのか。古代史最大の謎がいまだ解明されていないと著者は言う。
 壬申の乱に隠された歴史の真相を「二つの日本」という視点から解き明かそうというのが本書の試みだ。
 「二つの日本」に大海人皇子の逆転勝利の秘密を解く鍵を求めたのは著者独自の斬新な視点だ。つまり壬申の乱当時の日本は、西国を支配していたヤマト王朝勢力と、蝦夷と呼ばれ恐れられていた東国の豪族勢力とに二分されていたのだ。大海人皇子が劣勢を見事に覆すことができたのは、東国の有力豪族の後押しが得られたからだった。なぜ大海人皇子は東国勢力の支持が得られたのか。その謎が明かされたとき、読者は驚愕の真相を知ることになるだろう。


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Last-modified: 2009-02-11 (水) 17:28:55 (5547d)