
アルゼンチン共和国[República Argentina]は, 南アメリカ大陸の南部に位置する連邦共和制国家である.国土面積は約278万平方キロメートルと, 南米第2位, 世界第8位の広さを誇る.首都はブエノスアイレス[Ciudad Autónoma de Buenos Aires]であり, 人口は約4,700万人[2023年推計]を有する.公用語はスペイン語, 通貨はアルゼンチン・ペソ.
その広大な国土, 多様な自然環境, ならびに波動的な経済発展の歴史によって特徴づけられる国であり, スペイン植民地期から独立, 農牧業輸出国としての繁栄, ポピュリズムと軍政の時代, そして現代の経済的不安定性に至るまで, 同国の歩みは複雑かつ多層的.
アルゼンチンの先史時代には多様な先住民社会が存在した.北西部のノア地方にはディアギタ族, フフイ周辺にはオマグア族, 中央部のパンパにはケランディ族, パタゴニアにはテウェルチェ族[パタゴン人], 南端のフエゴ島にはセルクナム族[オナ族]やヤガン族などが居住していた.また北部チャコ地方にはトバ族[コン族]やモコビ族が暮らしていた.これらの諸民族は農耕・牧畜・狩猟採集など多様な生業を持ち, 高度な文化と社会組織を発達させていた.15世紀にはインカ帝国が北西部に勢力を拡大し, 現在のフフイ・カタマルカ・ラ・リオハなど一帯を支配下に置いた.
1516年, スペインの探検家フアン・ディアス・デ・ソリスがリオ・デ・ラ・プラタ河口に到達し, ヨーロッパ人として初めてこの地を踏んだ.しかし彼は先住民に殺害された.1520年にはフェルナンド・デ・マガリャネス[マゼラン]が南端のマゼラン海峡を通過, 1535年にはペドロ・デ・メンドーサがブエノスアイレスを初めて建設したが, 先住民ケランディ族の抵抗により間もなく放棄された.1580年にファン・デ・ガライが現在の地にブエノスアイレスを再建設し, 以降スペイン植民地支配の拠点となった.
植民地時代の行政はペルー副王領[Lima]の管轄下に置かれていたが, 1776年, スペイン国王カルロス3世はリオ・デ・ラ・プラタ副王領[Virreinato del Río de la Plata]を創設し, ブエノスアイレスを首都とした.これにより現在のアルゼンチン, ウルグアイ, パラグアイ, ボリビアにあたる地域が一つの行政単位に統合された.副王領設立の背景には, 大西洋岸の防衛強化およびブラジルを領有するポルトガルへの対抗という地政学的意図があった.この時期, イエズス会が北東部グアラニー族の間で布教を行い, 「レドゥクシオン[集住村]」を形成して独特の社会を構築した[1767年のイエズス会追放まで続く].
18世紀末から19世紀初頭, フランス革命・アメリカ独立などの影響を受け, クリオーリョ[植民地生まれのスペイン系住民]の間に独立意識が高まった.決定的な契機となったのは1806–1807年のイギリス軍によるブエノスアイレス侵攻[英国の侵略, Invasiones Inglesas]であった.スペイン本国の援助なしに市民が自力でイギリス軍を撃退したことで, 現地の自治能力と自立意識が大きく高まった.
1808年にナポレオンがスペイン国王を廃位したことで本国の権威が失墜すると, 1810年5月25日, ブエノスアイレスでカビルド・アビエルト[市民公開集会]が開かれ, 副王を罷免して自治政府[フンタ]を樹立した[五月革命, Revolución de Mayo].この5月25日は現在もアルゼンチン国民の祝日「五月革命記念日」として祝われる.
その後の独立戦争を経て, 1816年7月9日, トゥクマン会議においてリオ・デ・ラ・プラタ連合州[Provincias Unidas del Río de la Plata]の独立が正式に宣言された.この7月9日が独立記念日である.独立運動の指導者としては, マヌエル・ベルグラーノ[国旗制定者], ホセ・デ・サン・マルティン[南米解放の英雄]などが特に著名であり, サン・マルティンはアンデス山脈を越えてチリ・ペルーの解放にも貢献した.
独立後は中央集権を目指すブエノスアイレスの統一派[ウニタリオス]と, 各州の自治を重視する連邦派[フェデラレス]の間で激しい内戦が繰り返された.フアン・マヌエル・デ・ロサス[Juan Manuel de Rosas]は1829年から1852年にかけてブエノスアイレス州知事として独裁的権力を握り, 連邦派の盟主として長期政権を維持した.しかし1852年, エントレ・リオス州知事フスト・ホセ・デ・ウルキサが率いる連合軍[ブラジル・ウルグアイも参加]にカセロスの戦いで敗れ, ロサスはイギリスへ亡命した.
1853年にアルゼンチン共和国憲法が制定され, 連邦国家の骨格が整えられた.しかしブエノスアイレス州は当初憲法を拒否して分離し, 1861年に再統合された.1861年以降, バルトロメ・ミトレ, ドミンゴ・ファウスティノ・サルミエント, ニコラス・アベジャネーダらが大統領を務め, 教育整備・鉄道建設・移民奨励などの近代化政策が推進された.この時期「砂漠の征服[Conquista del Desierto]」と呼ばれるパンパ・パタゴニアの先住民征圧作戦[1878–1885年]が行われ, テウェルチェ族・マプチェ族などが壊滅的な打撃を受け, その土地が大農場主層[エスタンシエロス]に分配された.1880年, ブエノスアイレス市が連邦直轄首都[Capital Federal]に定められ, 国家統一が完成した.
1880年代から1930年代にかけて, アルゼンチンは目覚ましい経済成長を遂げた.特にパンパの肥沃な土地を活かした牛肉・羊毛・小麦・トウモロコシなどの輸出が拡大し, 英国資本による鉄道網の整備[1914年には南米最大の鉄道網を保有]とともに, アルゼンチンは「世界の穀倉・食肉庫」と称される農牧業大国となった.この時期の一人当たりGDPは世界のトップ10に入るほどの水準を誇り, イタリア・スペイン・ポーランドなどからの大量移民がこの繁栄を支えた.1895年から1914年の間に約300万人が移住し, 人口と社会を劇的に変容させた.
政治面では, 1912年にサエンス・ペーニャ法[男子普通選挙・秘密投票]が制定され, 1916年には急進市民同盟[UCR]のイポリト・イリゴジェンが初の民選大統領に就任した.UCRは中間層・移民2世の支持を基盤とし, 二期にわたって政権を担った[1916–22年, 1928–30年].しかし1929年の世界恐慌による農牧産品価格の暴落と政治混乱を受け, 1930年9月6日, ホセ・フェリックス・ウリブル将軍がクーデターを断行し, イリゴジェン政権を打倒した.これがアルゼンチン史上初の軍事クーデターである.
ウリブル将軍の独裁政権[1930–32年]に続き, 保守派は不正選挙によって政権を維持した.この時期は選挙詐欺が横行したことから「悪名高い10年[Década Infame]」と呼ばれる.第2次世界大戦ではアルゼンチンは中立を維持したが, 国内ではナチス・ドイツへの同情論も存在した.1943年6月, 軍部内の秘密結社GOU[統一将校団]が再びクーデターを起こし, 保守派政府を打倒した.
1943年のクーデター後, 労働省次官[後に大臣]に就任したファン・ドミンゴ・ペロン[Juan Domingo Perón]大佐は, 労働組合との連携を深め, 労働者層[descamisados=シャツなき者たち]の強力な支持基盤を構築した.1945年10月17日, ペロン逮捕・拘禁に抗議して大勢の労働者がブエノスアイレスに集結し, 釈放を勝ち取った[「忠誠の日」].この日はペロニズムの象徴的記念日とされる.翌1946年の大統領選挙でペロンは勝利し, 初代ペロン政権が始まった[1946–1952年, 続く1952–1955年].
ペロン政権は産業の国有化[鉄道・電話・中央銀行など], 労働者の賃金・福祉向上, 女性参政権[1947年], 反米・第三の道外交などを推進した.妻エバ・マリア・ドゥアルテ・デ・ペロン[Eva Perón, 通称エビータ]は, ペロニズムを象徴する最も重要な人物の一人である.1919年, ブエノスアイレス州フニンの近郊ロス・トルドスに非嫡出子として生まれ, 貧しい幼少期を経て俳優・ラジオ女優として頭角を現した.1945年にペロンと結婚し, 大統領夫人となってからはその政治的影響力を急速に拡大させた.エバは「エバ・ペロン財団[Fundación Eva Perón]」を設立し, 病院・学校・孤児院・老人ホームの建設, 貧困層への衣料品・食料品・住宅の直接配布など, 広範な社会福祉活動を展開した.また女性参政権の実現[1947年]にも尽力し, 1951年の選挙ではアルゼンチン女性が初めて投票権を行使した.彼女は貧困層・労働者層から熱烈に崇拝される一方, 上流階級・保守派からは激しく反発された.1952年, 子宮頸がんにより33歳の若さで死去した.その死はアルゼンチン国民に深い悲嘆をもたらし, 遺体はその後, 軍政期に国外に秘密裏に移送されるなど数奇な経緯をたどった[最終的に1976年にアルゼンチンへ返還, ブエノスアイレスのレコレータ墓地に埋葬されている].エビータの生涯はミュージカル「エビータ」[アンドルー・ロイド・ウェバー作曲, 1978年初演]など多くの芸術作品に影響を与え, 今日もアルゼンチンの国民的アイコンとして語り継がれている.ペロン政権は財政赤字とインフレーションを抱えつつも, 社会的包摂を実現した一方で, 政治的弾圧・言論統制も行われた.1955年9月, カトリック教会との対立・経済悪化を背景に「自由革命」と称する軍事クーデターが起き[ロナルディ将軍後にアランブル将軍が主導], ペロンはスペインへ亡命した.
ペロン追放後は民政と軍政が交互に繰り返された.UCRのアルトゥーロ・フロンディシ[1958–62年], アルトゥーロ・イジア[1963–66年], そして1966年には「アルゼンチン革命」と称する軍事クーデターでフアン・カルロス・オンガニア将軍が政権を掌握した.この時期コルドバ州では1969年「コルドバゾ」と呼ばれる大規模な学生・労働者蜂起が勃発し, 軍政に対する抵抗が強まった.ペロン派ゲリラ「モントネロス」や左翼ゲリラ「人民革命軍[ERP]」の活動も活発化した.
こうした社会不安を受けてオンガニアは1970年に軍最高司令部によって解任され, ロベルト・レビングストン将軍[1970–1971年], 続いてアレハンドロ・ラヌッセ将軍[1971–1973年]へと軍政指導者が交代した.最終的にラヌッセが行き詰まりを打開するため選挙実施を決断し, 1973年の民政移管へとつながった.
1973年, 軍政は選挙実施を余儀なくされ, ペロン派のエクトル・カンポラが大統領に就任した.カンポラ就任直後の1973年6月20日, 18年にわたるスペイン亡命を終えたペロンが帰国した.この日, エセイサ国際空港周辺に数百万人の群衆が出迎えたが, ペロン派内の左派[モントネロス]と右派[AAA系]が銃撃戦を繰り広げ, 数百人の死傷者を出す「エセイサの虐殺」が発生した.カンポラは同年7月に辞任し, 同年10月の大統領選挙でペロンは62%の得票率で圧勝, 副大統領兼妻のイサベルとともに政権を樹立した[第三次ペロン政権].これが亡命から帰国したペロンの大統領への返り咲きであった.しかしペロンは翌1974年7月に在職中に死去し, イサベル・ペロンが後継となった.イサベル政権下では右派準軍事組織「AAA[アルゼンチン反共同盟]」による左派への弾圧と経済混乱が深刻化した.
1976年3月24日, ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍を首班とする軍事クーデターが起き, 「国家再編プロセス[Proceso de Reorganización Nacional]」と称する軍事政権が成立した.この政権は組織的な国家テロを展開し, 政治的反対者・知識人・学生・労働組合員らを「行方不明者[デサパレシドス]」として強制失踪させた.公式調査委員会[CONADEP]は9,000人以上の被害者を認定したが, 人権団体は実際には30,000人にのぼると主張している.秘密拘禁施設「ESMA[海軍工科学校]」などで拷問・殺害が行われ, 被害者の子どもが軍人家庭に不法に養子縁組された事例も多数あった.
「汚い戦争[Guerra Sucia]」と呼ばれるこの弾圧への抗議として, 行方不明者の母親たちが1977年から毎週木曜日にブエノスアイレスの5月広場に集まって沈黙の抗議行動を始めた.これが「五月広場の母たち[Madres de Plaza de Mayo]」であり, その活動は世界的に注目された.
1982年4月, 軍政は国内矛盾を外部へそらすために英国領フォークランド諸島[アルゼンチン名:マルビナス諸島]への侵攻を断行し, フォークランド戦争[マルビナス戦争]が勃発した.しかし英国軍の反攻により同年6月に降伏し, この敗北が軍政の権威を決定的に失墜させた.
1983年10月の選挙でUCRのラウル・アルフォンシンが大統領に就任し, 民政が回復した.アルフォンシン政権は軍政時代の人権侵害を裁くための「国家失踪者に関する全国委員会[CONADEP]」を設置し, 1985年にビデラら元軍事政権指導者を裁判にかけて終身刑を言い渡した[後に恩赦されるが, 後年再び収監].しかし深刻なインフレーション[1989年には年率3,000%を超えるハイパーインフレ]と経済危機により, アルフォンシンは任期途中で退陣した.
1989年にペロン派のカルロス・メネムが大統領に就任し, ネオリベラル的経済改革[国営企業民営化・規制緩和・貿易自由化]を推進した.1991年にはドミンゴ・カバーリョ経済相の主導でペソと米ドルを1対1で連動させる「兌換制[コンベルティビリダ]」が導入され, インフレは抑制された.しかし通貨の過大評価による輸出競争力喪失と財政悪化が蓄積し, 2001年末にフェルナンド・デ・ラ・ルア大統領[UCR]の在任中に深刻な金融危機が爆発した.政府は銀行預金の引き出しを制限する「コラリート[Corralito]」措置を発動し, 民衆の怒りが爆発.大規模な抗議暴動で40人以上が死亡し, 大統領はヘリコプターで宮殿を脱出した.その後数週間で大統領が5人交代する混乱の末, 2002年初頭にデフォルト[対外債務不履行]が宣言された.これは当時史上最大規模の国家デフォルトであった.
2003年にネストル・キルチネル[Néstor Kirchner]が大統領に就任[2003–2007年]し, 対外債務再交渉・社会政策の拡充・人権裁判の再開などを行い, 経済は回復軌道に乗った.2007年にはその妻クリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネル[CFK]が大統領に就任し[2007–2015年], 資源・エネルギー企業の再国有化や積極的な社会政策を推進したが, 同時にインフレの加速・通貨管理・統計操作疑惑なども問題化した.2015年には中道右派のマウリシオ・マクリが政権を獲得し[2015–2019年], 市場開放・緊縮財政・IMF融資[2018年に史上最大規模の570億ドル融資協定]を進めたが, 再びインフレと通貨危機が深刻化した.2019年のペロン派アルベルト・フェルナンデス政権[2019–2023年]を経て, 2023年11月の選挙では急進的な自由主義[リバタリアニズム]を標榜するハビエル・ミレイが大統領に当選[2023年12月就任].ミレイ政権は大幅な緊縮財政・国家機構の解体・ドル化政策などを掲げ, アルゼンチン政治に新たな局面をもたらしている.
アルゼンチンは南アメリカ大陸の南部に広がる広大な国土を有し, 西はアンデス山脈によってチリと接し, 東は大西洋に面する.北はボリビアやパラグアイ, ブラジルと国境を接し, 南東はウルグアイと接している.最南端のティエラ・デル・フエゴ[フエゴ島]はチリとの共同領有であり, アルゼンチンはさらにフォークランド諸島[マルビナス諸島]・南ジョージア島・南サンドウィッチ諸島・南極の一部についても領有権を主張している.
国土は大きくいくつかの自然地域に区分される.中央部のパンパは温暖湿潤な気候と肥沃な土壌を持ち, 農業・畜産の中心地である.西部のアンデス山脈には標高の高い山岳地帯が広がり, アコンカグア山[標高6,961m]は南北アメリカ大陸最高峰として知られる.南部には乾燥したパタゴニアが広がり, 寒冷で偏西風[パタゴニア風]の強い気候が特徴であり, ペリト・モレノ氷河などの壮大な自然が観光資源となっている.また北東部には熱帯・亜熱帯の森林地帯が存在し, グランチャコの乾燥林やイグアスの滝など気候と生態系の多様性が顕著である.北西部のアンデス山麓[ノア地方]には渓谷と乾燥盆地が広がり, 独特の文化的景観を形成している.
このような地理的多様性は農業, 畜産, 資源開発, 観光など多様な経済活動を支える基盤となっている.主要都市はブエノスアイレス[首都・人口約1,500万人の大都市圏]のほか, コルドバ, ロサリオ, メンドーサ, トゥクマン, ラ・プラタなどが挙げられる.
アルゼンチン経済は歴史的に農牧業輸出に強く依存してきた.特に牛肉, 小麦, 大豆[および大豆油・大豆粕]などの一次産品は国際市場で重要な位置を占めており, 大豆関連製品はアルゼンチン最大の輸出品目となっている.19世紀末から20世紀初頭にかけては世界有数の富裕国の一つであったが, その後は政治的不安定性と経済政策の変動により成長は停滞した.
20世紀中盤以降, 輸入代替工業化政策により工業化が進展したものの, 効率性や国際競争力の問題が顕在化した.ペロニズム的政策は社会的包摂を進めた一方で, 財政赤字やインフレーションを引き起こす要因ともなった.
現代においては, 農業に加えエネルギー資源[特に世界第2位の埋蔵量を誇るとされるシェールガス, および世界第4位規模のシェールオイル, バカ・ムエルタ鉱区が有名], 鉱業[リチウム・銅・銀など], サービス業, 観光業が重要な産業を構成する.リチウム埋蔵量はチリ・ボリビアとともに「リチウム・トライアングル」を形成しており, 電気自動車産業の発展を背景にその重要性が高まっている.
しかしながら慢性的な高インフレ[2023年には年率211%を超えるハイパーインフレを記録], 通貨ペソの持続的下落, 対外債務問題など構造的課題が存在する.特に2001年のデフォルトと2020年の再デフォルト[9度目の国家デフォルトとも称される]は国際金融市場との関係を不安定なものとし, IMFとの交渉が断続的に続いている.2023年末に就任したミレイ大統領政権は, 財政赤字の解消[財政黒字の達成]・規制緩和・ドル化政策を強力に推進しており, その効果と持続性が注目されている.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.