[[奥州戦国大名家]]
*氏家家
**事蹟
|100|50|400|c
|宇都宮公頼|-|宇都宮朝綱の子。下野国芳賀郡氏家郷を領す。氏家家の祖。居城は勝山城。|
|氏家重定|1353&br;文和2|奥州探題斯波兼頼の執事として奥州に下向。|
|氏家(弾正)詮継|1364&br;貞治3|北条一族塩田時信の挙兵と胆沢侵攻に対して大崎家の名代として出兵し鎮圧。|
|~|1394-1428&br;応永年間|岩出山城を築城し本拠とする。戦国時代末期に、この城は伊達政宗の居城となる。|
|氏家直益|1534&br;天文3|【大崎氏天文の内訌】志田郡泉沢領主新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢らと叛旗。氏家直益も新田に与す。将軍足利義晴の口ぞえ無しには家督相続を成しえない大崎義直の足元を見ての挙兵。岩出山城に篭城するも、伊達稙宗の援助によって鎮圧される。&br;乱の後、伊達稙宗は次男義宣を義直の養子として送り込む。&br;氏家直益は家督を隆継に譲り三丁目城に隠棲。|
|氏家吉継|1586&br;天正14|【大崎合戦/伊達政宗の介入】新井田刑部が大崎家執事の氏家弾正吉継(隆継の子、直継とも)、伊庭野惣八郎らを追放し、主君大崎義隆に代えて伊達政宗に忠誠を誓う。&br;これに応えて、伊達政宗は進軍。しかし、伊達政宗の到着を待たずして氏家弾正を攻撃。伊達政宗への忠誠も反故とし大崎義隆を再び擁立。これに対して、氏家弾正が伊達政宗の家臣・片倉景綱に援助を要請。伊達政宗は泉田安芸重光と留守政景を将として、長江月鑑斎、田手宗実、遠藤高康、高城宗綱らの諸勢を率いて、敵主城中新田城、桑折城、師山城、下新田城を攻撃させた。&br;この戦いは大雪などによって伊達軍の敗戦となり、伊達家が増派援軍を送り込もうとした矢先、大崎・黒川・最上三家からの呼びかけで和議が結ばれる。|
|~|1590&br;天正18|大崎家は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために所領没収。上杉家に預けられる。これに伴い、吉継は伊達家の家臣となるも翌年病死。&br;吉継には女子しかいなかったが、その娘の血を引く女子を正室とした中里清勝が主君・伊達忠宗の命によって、1660(万治3)年に氏家主水として氏家家を再興する。|

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