[[福井県]]>福井
**一乗谷朝倉氏遺跡 [#v8eb9e62]
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~福井市にある特別史跡。
~南北朝時代に越前守護の斯波高経に従って、但馬の養父から入った朝倉広景に始まる朝倉家の本拠地。
~越前の中でも、ここ一乗谷に本拠を移したのは朝倉孝景のとき。時代は応仁の乱で全国的に激しく動いた。
~そして、越前でも朝倉氏が主家である斯波氏や、共に斯波氏を支えてきた甲斐氏を追放し、実権を握った。
~朝倉孝景の後、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年の間、一乗谷に栄えた。
~義景の代には、隣国の若狭において、守護の若狭武田家を支えていた大飯の逸見家・三方の粟屋家のうち、逸見家が京都の三好党松永長頼の支援で叛旗を翻すと、守護・武田義統の要請に基づいて出兵し、事実上、若狭を併呑。
~義景の代には、隣国の若狭において、守護の若狭武田家を支えていた大飯の逸見家・三方の粟屋家のうち、逸見家が京都の三好党松永長頼の支援で叛旗を翻すと、守護・[[武田義統>若狭守護館址]]の要請に基づいて出兵し、事実上、若狭を併呑。
~また、京都における六角義賢と三好長慶との覇権争いを逃れて越前に下向した大覚寺義俊(室町幕府将軍・足利義輝の叔父)を親交を結んだ縁で、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)に暗殺された将軍・足利義輝の弟・一乗門院主覚慶(後の将軍・足利義昭)を庇護することとなる。将軍の後継者を迎え入れるほどに朝倉家の越前経営は安定していたという何よりの証左だろう。
~もっとも、この将軍・足利義昭と織田信長との対立に巻き込まれる形で、1573年に織田信長の軍勢に攻められ滅亡へと追いやられてしまう。
~その際に、栄華を誇った一乗谷の城下町も灰燼に帰した。長らく畑の中に埋没していた遺跡だったのが、現在、このように当時の姿へと復元されているということは嬉しい限り。
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