尾崎神社

近江町市場を抜けて暫く歩き、お城のほうへと足を伸ばす。
かつて大学があったころの入り口があったけれども今は入れないとの表示の手前に、アドレナリン、タカジアスターゼの創製で知られる高峰家旧宅と旧検事正官舎のある黒門前緑地の前を通って尾崎神社に至る。
4代藩主光高が家康公を祀った神社であり、北陸の東照宮とも称されていることから、かなり大きな境内を想像していたのであるが、それよりは小規模なもの。
あくまでも想像よりはという意味。
尾山神社ほどを考えていたのだが。
さもありなん、初めから、現在の地にあったのではなくて、北の丸に鎮座していたという。言うまでもないが、日光の東照宮と同じく神仏混交が色濃い。というわけで、明治6(1873)年に純粋に神社化され名前も尾崎神社と改められる。ある種の災難は、それだけに留まらない。明治政府にとっては、徳川家康は旧体制の創設者であり象徴。その象徴をご本尊とする東照宮は、あまり気持ちの良い存在とは言いがたかったろう。特に、維新の熱気覚めやらぬ明治の前半では、旧体制の象徴に寛容になるというのは難しい。明治9年に、金沢城が陸軍に接収されると北陸の東照宮も移転を余儀なくされた。
移転補償金もわずかであったために、尾崎神社は全てを移転することが出来ず、縮小を余儀なくされた。こうして、二段階にわたる縮小によって、現在の規模へとなったのだ。
縮小を余儀なくされたとはいえ、境内の歴史的密度はかなり濃い。
まず、一間の向拝が附属している本瓦型銅板葺で朱漆塗という拝殿は三間二面の入母屋平入で千鳥破風付。その拝殿に、丁度T字に一間二面の幣殿が接している。
その社殿をはじめ、中門、透塀が国の重要文化財に指定されている。中門は、幣殿と本殿の間の平唐門。これも本瓦型銅板葺で中々のもの。そこに菱格子吹寄桟の桟唐戸を建込み、両脇から透塀が延びて、本殿を取り囲んでいる。
本殿も、本瓦型銅板葺で、日光廟の仕上げを模す三間社流造となっている。



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