江戸の三森

江戸幕府が開かれてから江戸の市域は拡大を続け今の東京に至っている。その江戸も徳川家康が入城する以前は武蔵野の原風景を色濃く残す地だった。
幕府が開かれても暫くは江戸の周辺には、その懐かしい東国の趣が残されていたという。そのころから、「江戸の三森」と呼ばれた椙森、烏森、柳森は現代に、その趣を僅かながらに伝えている。それぞれの森には、日本古来の神道よろしく神社がある。
まずは、烏森から足を運んだ。
烏森神社は倉稻魂命、天鈿女命、瓊瓊杵尊を祀っている。
烏森はJR新橋駅に烏森口として名を刻んでいるが、想像の通り駅から目と鼻の先に鎮座している。この日は、社殿の横のビルが工事中で建物全体がビニールのカバーに覆われていた。そのせいもあるだろう。横に構える烏森神社は脇にあるといった印象を与えていた。
この神社の歴史は古い。

そもそも、烏森なる地名は、江戸湾に面した桜田村の松林一帯を指し示す「枯洲(かれす)森」に由来するという。
そして、その枯洲森に社殿を建立したのは、関東の自立を図り大和朝廷に弓矢を引いた平将門を鎮圧した俵藤太として知られる鎮守将軍藤原秀郷、その人である。秀郷は将門に対するに際して、椙森の稲荷社で戦勝祈願を執り行っている。その椙森の白狐が霊験の地として告げたのが烏森だったという。
もちろん、伝説の域を出ないだろう。
しかし、時代は下って享徳4(1455)年に初代古河公方の足利成氏(1438-97)が前年に関東管領上杉憲忠を誅殺し室町幕府に弓を引いたことで始まった享徳の乱の戦勝を祈願して右近の剣を奉納していることから見ても歴史の古さは分かる。
確かに、歴史は古いのではあるけれども、縁起によると境内の狭さは江戸初期から変わらないとのこと。
写真では分かりづらいが、決して広いとは形容できない。かの英雄俵藤太所縁の神社としてはあまりにもひっそりとし過ぎている。
さて、ここから一旦、JRの新橋駅に取って返す。次は、小伝馬町近くの日本橋堀留に鎮座する椙森神社を目指す。時代を遡るという趣旨ではないが、つまりは、俵藤太とは逆のコースを行く。
まず、新橋駅から銀座線に乗る。銀座、京橋と過ぎて日本橋で日比谷線に乗り換えて小伝馬町で下車。

ここには、以前、伝馬町牢屋敷跡である十思公園と大安楽寺を訪れた際に利用した。今回は、丁度、十思公園とは反対側を目指す。
目印のUFJ銀行を見つけると、そのすぐ先に、椙森神社が鎮座する。

この社は、天慶3(940)年には俵藤太が戦勝祈願をしているから歴史が古い。お狸様とも呼ばれ親しまれてきた神社である。烏森と同様、決して広くはないが、倉稻魂大神、素盞嗚大神、大市姫大神、大己貴大神、五十猛神、抓津姫神、大屋姫神、事八十神と数多くの神を祀っている。
ここで、そのまま小伝馬町駅に戻るのも良いが、途中、UFJ銀行の裏に鎮座する若洲神社に参詣。

小伝馬町から秋葉原の柳森に向かう。三森の最後である。
一駅なので、忽ちににして着く。改札を抜けて階段を上ると目の前には神田川が流れている。そこに架かる橋の袂が、かつての柳原河岸だ。そして、ここに、江戸城を川の氾濫から守る目的で土手が築かれた。8代将軍徳川吉宗(在職:1716-1745)の命で柳が植えられたというが、既に土手もなく柳も一本しかない。もっとも、吉宗時代の柳ではなかろう。
橋を渡って暫く進むと、神田川に面して柳森神社がある。土手に鎮座しているということなのか、道から下ったところに社殿がある。
この神社の歴史も古く、太田道灌が江戸城を築城した際に、江戸城の鬼門除けとして柳を植えて稲荷社を建立したことが起源という。長禄2(1458)年のことになる。柳森の地名は、この時に興ったものとされる。
但し、太田道灌由来の柳森は現在の地ではない。現在の地へは万治2(1659)年に遷座した。そこに、柳を植えたのが吉宗ということになる。
吉宗治世の元文年間(1736-41)には床見世が軒を連ねたが、火除地とするために移転を余儀なくされ、老中松平定信は寛政3(1791)年に七分金積立制を運用する町会所と籾蔵を境内近くに建てた。その碑が境内にある。
神田川沿いの低い地にあるために、道路に面した鳥居から階段で降りていく形になる。道路から見ると社殿を見下ろすようなことになるのが、少し気が引ける。横には商店などの建物が並んでいるが、どの建物の入り口の高さも道路と同じ。これに対して柳森神社が低くなっているということは、後から土を盛ったということだろうか。
その分、今はない柳原土手の面影を境内に見ることが出来た。

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