分倍河原古戦場跡(府中、鎌倉街道上道)

1333(元弘3)年5月、新田義貞は鎌倉幕府に叛旗を翻す。後醍醐天皇に呼応した挙兵に対処するための課役に反発した義貞が北条得宗被官を討ち取り、幕府側からの追討を恐れて挙兵に及んだと考えられている。そんな偶然の挙兵も反北条の鬱憤を吸収して大きな流れとなっていった。まず、5月11日に小手指ヶ原で副将長崎高重、桜田貞国を破り、久米川でも勝った。最後の得宗北条高時(1303-1333;第14代執権)の弟で主将の左近大夫将監入道恵性(北条泰家;鎌倉幕府滅亡後に北条氏残党を率いる)は分倍河原で態勢を立て直し新田軍に再度挑んだ。この戦いで新田軍は敗れ所沢に退却。退却時に武蔵国分寺を焼き払った。ところが、翌15日には三浦義勝らの相模武士団が新田軍に合流し、分倍河原の北条軍を急襲。北条軍は関戸まで退いた上で鎌倉へと敗走した。


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