後鳥羽上皇火葬塚

隠岐の島前3島のひとつ中ノ島(海士町)にある。隠岐神社の北側であり、承久の乱により隠岐へ配流となった後鳥羽上皇(1180-1239;尊成;第82代天皇)は当時、この辺りにあった源福寺を仮御所(行在所)として、19年の生活を送り60歳で亡くなった。上皇は荼毘に付され、遺骨の一部は京都に持ち帰られた。しかし、遺された遺骨などを仮御所(行在所)の近くに建てられた廟殿に納められた。

後鳥羽上皇は、高倉天皇の第四皇子。母親は従三位坊門信隆の娘の七条院殖子で、平家に擁立された安徳天皇の異母弟に当たる。1192(建久3)年に後白河法皇が崩御すると親政を布き源 頼朝に征夷大将軍の宣下を行っている。1198(建久9)年に土御門天皇に譲位。後、順徳天皇、仲恭天皇の治世において1221(承久3)年まで治天の君として君臨した。

鎌倉幕府第3代将軍源 実朝が甥の公暁によって暗殺されると、1221(承久3)年に第2代執権北条義時を追討する院宣を発し「承久の乱」を起こした。

「承久の乱」で敗れると、倒幕計画に関与した子の順徳上皇は佐渡へ、雅成親王は但馬へ、頼仁親王は備前へ配流。仲恭天皇は廃され、後鳥羽上皇の倒幕計画に関与していなかった土御門上皇も自らの意思で土佐に遷った。


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