五摂家

藤原氏の中でも摂政関白に任ぜられる家柄を摂家という。近衛、九条、二条、一条、鷹司の五家である。藤原北家の良房の嫡流が鎌倉初期になって藤原忠通の子の基実と兼実が近衛家と九条家を立てたのが始まり。藤原忠通の父親の忠実(1078-1162)は自身が権力基盤を承継する前に父・師通が亡くなったため一族の政治抗争に渦中に投げ出された。この抗争を白河院が嫡流への承継が望ましいという形で忠実に軍配を上げ氏の長者としての地位を得た。こうした経緯から藤原氏は院政の下に置かれることを余儀なくされた。

堀河天皇の関白、鳥羽天皇の摂政・関白を歴任した後、娘の泰子の入内問題で白河院と対立し、関白の位を忠通に譲った。丁度、この頃、同じく白河院の寵愛を受けていた河内源氏の源 為義が家人の乱暴狼藉が相次いだことで信任を失っている。伊勢平氏の平 忠盛は同い年だったが順調に昇殿を果たしていることに憤った為義は権力の後ろ盾を、同じく逼塞していた藤原氏嫡流に求めるようになる。ここに、1143(康治2)年為義は頼長に対して臣下の礼をとっている。忠実は、鳥羽院政の開始とともに政界に返り咲いており、かつ、位を譲った忠通ではなく頼長を重んじていた。また、当初は子がいなかった忠通が頼長を養子にしていたが、この年に忠通に基実が生まれる(1143[康治2]年)と養子関係を解消した。ここに至って、忠通と頼長との対立が表面化してくる。そして、1150年に忠実が氏長者の地位を忠通から剥奪して頼長に与えると時勢は頼長に傾くかに見えた。その5年後、近衛天皇が嗣子なく崩御すると、鳥羽法皇と藤原忠通そして美福門院の推す後白河天皇(美福門院が養育)が即位。これによって、崇徳上皇の第一皇子の重仁親王の擁立を目指していた藤原忠実・頼長父子の形勢は一気に逆転。崇徳上皇も面子を潰された形となった。加えて、崇徳上皇は鳥羽法皇の子ではなく祖父の白河法皇の子であるとされ鳥羽法皇が崇徳上皇を疎んでいたことも問題を複雑なものとした。それでも、鳥羽法皇が存命中は皇室と藤原家の内部対立は辛うじて均衡を保っていた。

しかし、1156年に鳥羽法皇が亡くなると一触即発の状況となる。崇徳上皇方には藤原頼長を始め、源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)、平忠正が集まり、後白河天皇方には、藤原忠通を始め源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)が集まり平治の乱となったのである。結果は後白河天皇方の勝利となり、左大臣頼長は源重貞の放った矢が眼にあたり重傷を負い戦死する。落ち延びる途上で父親の忠実に助けを求めたが拒絶されている。家を守るための非情であろうか。頼長の長男兼長、次男師長、三男隆長、四男範長は悉く流罪となった。父親の忠実は奈良の知足院に逼塞したが、忠通の取り成しによって流罪は免れた。しかし、これも父親を思う気持ちからというよりは藤原氏の所領を没収されないための措置だったと言われている。

忠通の跡は近衛基実(1143-1166)が承継した。基実は平 清盛の娘の盛子を妻としている。この基実から近衛家、鷹司家が出た。また、藤原忠通の三男の兼実は嫡流の基実とは異なり平家一門とも後白河天皇とも一定の距離を保ち、やがて源 頼朝と結んで後鳥羽天皇の摂政・藤原氏長者となる。その子の内大臣良通、摂政太政大臣良経が早世したため、孫の道家の養育に心血を注ぎ九条家、二条家、一条家の礎を築いた。




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