梶原一族の墓(梶原、鎌倉)


湘南モノレールの湘南深沢駅で下車して深沢小学校へと向かう。
お目当ては深沢小学校の裏側、といっても敷地内にある梶原一族のお墓。
梶原景時(-1200)は「鎌倉本体の武士」と称されたほどに源 頼朝(鎌倉殿)の信任厚かった人物。ただ、鎌倉殿の意図を汲んで鎌倉殿の直接やりたがらない事を積極的に実行したためにマイナスのイメージが定着してしまっている。
梶原氏は大庭氏、俣野氏、長尾氏などのいわゆる鎌倉党の一族。同じく鎌倉幕府の重鎮として知られる三浦半島の三浦一族と鎌倉を挟んで対峙する梶原の地を本拠地としていた。その梶原景時は宗家に当たる大庭氏が平家方であったために1180(治承4)年の源 頼朝の挙兵時には平家方で参戦したものの、岩屋に潜んでいた頼朝一行を見逃した縁で土肥実平の仲介で御家人となった。そして、教養を十分に身につけていない関東武士団の中にあって弁舌が巧みであるとして鎌倉殿の寵愛を受けるようになる。ところが、景時を上手く使いこなせたのは頼朝だけで第2代将軍頼家は景時を使うことも庇うことも出来なかった。ここに景時の悲劇が始まる。頼朝の死後、1199(正治元)年に景時は結城朝光に謀反の疑いありと頼家に忠告するが、かえって御家人の反感を買い御家人六十六人の連署による弾劾を受ける。
頼朝であったならば、景時に讒言の意図がないことを知り抜いていたから、景時と他の御家人との対立を自身への双方の信頼を基に団結へと転じさせることも出来たかもしれない。
しかし、頼家にはそれは出来なかった。梶原景時一族は鎌倉を追放される。一時、密かに弁明しようと鎌倉に舞い戻るも再び追われる。
追い詰められた梶原景時は翌年に、甲斐源氏武田有義を擁立して新しい鎌倉幕府を打ち立てようと企て京へ上ろうとする。ところが、途中、駿河の狐ヶ崎で、この企てを察知した吉川小次郎らの手に掛かって一族は滅亡した。
鎌倉の十二所に梶原氏の鎌倉での館が、寒川の一宮に城館があったが、一族の墓は祖先伝来の名字の地である鎌倉の梶原にある。





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