平康頼卿の墓

野間大坊にある。野間大坊は源義朝(1123-1160)の菩提を弔うために平康頼が1186(文治元)年に水田30町と小堂を寄進したのが始まりとされる。康頼は1177年に藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒計画「鹿ケ谷の陰謀」に加わった人物。1190(建久元)年に源義朝の子で鎌倉幕府の創設者である源 頼朝が野間大坊を訪れ父親の廟所に詣でる(吾妻鏡』建久元年10月25日条)とともに、鎌田正清、平康頼、池禅尼の塔を合わせて建立したとされる。

康頼は中原(平)頼季の子で、「鹿ケ谷の陰謀」に加担したことで平 清盛によって鬼界ヶ島に流されたが言仁親王誕生の恩赦によって帰京。隠棲していたのを1186(文治2)年に源 頼朝の進言によって阿波国麻殖保司に任ぜられている。墓所は野間大坊の他に、京都東山区下河原鷲尾町の雙林寺に供養塔がある。治承年間(1177-1181)成立の嵯峨釈迦堂(清涼寺)での僧俗の対話形式の形をとった仏教説話集の『宝物集(康頼宝物集)』の作者として知られる。

興味深いのは康頼の父の頼季。平姓を名乗っているが元は中原姓で信濃権守であり、木曽義仲を養育した同じく信濃権守だった中原兼遠(樋口兼光、今井兼平、巴御前の父親)との関係が気になるところ。


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