今井町

美と歴史の旅。今回(2007年6月10日)は奈良の今井町。京都で新幹線を降りて近鉄の特急で賢島行に乗って大和八木へ。大和八木で橿原神宮行に乗り換えて隣の八木西口へ。駅を出て川を渡るとすぐに今井町。かつては環濠に囲まれて門も築かれていたが、現在は地続きになっている。
今井町は興福寺一乗院文書に1386(至徳3)年に興福寺に属する荘園として文献上に登場する。当時から環濠はあったのだろう。その後、一向宗、つまり浄土真宗の道場(現在の称念寺)が建立され天文年間(1532-55)頃には一向宗道場を中心として寺内町を形成していった。すなわち、この時に、現在の今井町に本願寺坊主の今井兵部卿豊寿が入った。ちなみに、今井家は代々僧侶身分と武士身分を1679(延宝7)年まで保ったが寺内町の存続を嫌った江戸幕府の要請によって武士としての身分を返上し称念寺の住職を世襲している。

1570(元亀元)年に一向宗の総本山である大阪石山本願寺と織田信長が戦端を開くと、今井町も今井兵部の指揮のもと織田軍と闘った。しかし、1575(永禄11)年に今井家は明智光秀を通じて織田信長の軍門に下り、以降は商業都市としての道お歩んでいく。惣年寄、町年寄を置き、堺と同様に自治権を与えられた今井町は文禄年間(1592-1595)には西、東、北、新、今の6つの町で構成されていた。自治権は江戸時代に入っても受け継がれ一時期郡山藩等に組み入れられるが約180年間は天領であり、町政は今西、尾崎、上田の惣年寄によって取り仕切られた。江戸初期には東西600メートル、南北310メートルの環濠土居に囲まれた中に1100軒、4000人以上が暮らす規模を誇った。もともと一向宗の寺内町・宗教武装都市として構築されたために町の道に真っ直ぐなものは無く、さながら城下町の雰囲気がある。

切妻造・本瓦葺・厨子ニ階という江戸時代からの伝統様式を残す町家と江戸時代初期の景観が現在でも数多く残る。


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