上野沼田藩土岐家

35,000石。譜代、帝鑑間、城主。

沼田は真田信之が城主を勤めた地。真田信之の父昌幸は関ヶ原の戦いで徳川秀忠を立ち往生させた人物。父親と袂を別った真田信之は本多忠勝の娘を妻とし、徳川家と固く結んだ。真田家は沼田の他に信濃国上田藩を領したが沼田藩主家は信利の時、1680(延宝8)年の江戸の隅田川に架かる両国橋の改修の負担で茂左衛門の直訴が行われ、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって改易となった。

真田家の後、天領時代を経て、老中本多正永(2万石)、黒田家と続いて老中土岐頼稔が入った。頼潤の代、1783(天明3)年には浅間山の大噴火があり飢饉も発生。中絶を防止するために「養育大世話人」制度を設け養育費の支給を行い、1828(文政11)年には下牧村玉泉寺、沼田長寿院、屋形原村実相院によって「小児養育冥加金」の制度が設けられるなど、福祉先進国として知られた。

1869(明治2)年時点の藩内人口は42,400人、うち士族は1,660人(含家族)。


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