霜月騒動

時宗亡き後は息子の貞時が執権となった。輔佐を務めたのは時宗時代からの重鎮で、貞時の外祖父でもある安達秋田城介泰盛。これに対抗していたのが北条得宗家の御内人の代表格である管領平左衛門尉頼綱であった。本来ならば安達氏は御家人であり、頼綱は御家人の家人であるから対等であるはずもない。しかし、同じ御家人とは言っても北条得宗家は別格の様相を呈していたことから家人である御内人は次第に他家の御家人と同様の地位を有するようになっていた。いわば、安達泰盛は北条家以外の御家人を代表する立場であり、頼綱は御家人衆から更に権力を奪い去って北条家独裁を強化しようとする得宗御内人の代表というべきだろう。

安達泰盛は執権貞時の外祖父であり、頼綱は貞時の乳夫であったことも対立を深めた。互いに幼い貞時に様々な噂を吹聴し自らの立場を強固なものとしようとしたのである。平 頼綱は泰盛の子の宗景の噂を貞時に伝えた。

その噂とは次ぎのようなものであった。宗景の曾祖父の景盛は頼朝と浅からぬ縁があり義兄弟であった。そのために、安達の姓は藤原であるが、この縁によって源氏となるのだと宗景が言っているというもの。鎌倉で源氏を名乗るというのは鎌倉殿、すなわち、将軍となる資格者であるということを宣言するのに等しい。この噂が本当であったかどうかは分からない。しかし、火の無いところにである。しかも、噂の内容は実質上、得宗家への謀反に等しい。

それからも事有る毎に頼綱は貞時に、あれは謀反の証拠、これも謀反の兆しと囁いた。そうこうしているうちに、貞時も本当に安達父子が謀反を計画しているように思い出してきて、1285(弘安8)年11月17日に兵の集結を命じるに至った。

一方の安達泰盛、宗景父子は頼綱の動きを事前に掴んでいなかった。まさか、貞時が外戚である安達家に対する攻撃を許すとは考えてもみなかったのである。完全に不意を突かれた。御所への出仕の途中で頼綱の手勢に取り囲まれてあっさりと討ち取られてしまった。頼綱は安達一族の反撃を封じるために軍勢を甘縄の安達邸へも派遣し一族郎党を討ち取った。この事件で御家人勢力は封じ込められ、以降は得宗家の御内人が中心となっていった。


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