弘安の役

1281(弘安4)年、再び元軍が10万の軍勢を率いて来襲した。日本側は、かねてから少弐経資に命じて石築地を、今津から香椎まで築き上げていた。元軍は高麗の合浦から出航したモンゴル、漢、高麗連合軍の東路軍900艘と中国本土の慶元から出航した江南軍の2手に分かれて、壱岐で合流する計画であった。

東路軍は対馬を蹂躙した後に壱岐に来襲。壱岐を守る少弐経資の子の資時が応戦するものの全滅してしまった。さらに、東路軍は博多に進んだ。本来の計画では壱岐で江南軍との合流を待って日本本土に上陸すべきであるが、何故か単独で進撃している。東路軍は長門へも兵力を割いて日本側を分断し上陸作戦を敢行しようとしたが日本側の防備が堅く果たせなかった。そこで、東路軍は一旦壱岐へと引き上げる。江南軍との合流という当初の計画に戻した訳である。日本側は、元軍の船に火をかけ、上陸を阻止するための石垣をもって防いだ。それでも手ごわいことには変わらず、菊池、原田、松浦の各党は苦戦を強いられた。鎌倉は急遽、南北六波羅探題軍の追加派遣を決定。後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇も伊勢、石清水、賀茂、春日、平野、松尾の各社に敵国降伏の祈祷を命じた。

江南軍は太宰府の長期占領に備えていたために遅れ、しかも目的地を壱岐から攻め易い平戸に変更していた。占領地で食糧を自給できるように鍬や鋤までも準備していたのである。

元と日本とで互角もしくは、元軍優勢かという状況で戦況は推移した。防戦の準備も次々と打ち破られ、上陸を許してしまうのは時間の問題かとも思われた。しかし、閏7月1日、突然の大風に海は荒れ、元軍の艦隊は波に翻弄されることになった。元の艦隊は船の上での戦いに備えて船と船とをがっちりと鎖で結んでいたために却って被害を大きくした。合計4000艘を越えていた大艦隊の多くが藻屑と消えたのである。


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