鎌倉殿承継問題

鎌倉幕府第3代将軍の右大臣源 実朝は甥の鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺された。ここに源 頼朝に始まる鎌倉殿の嫡流は途絶えてしまったことになる。ただ、源家一門と呼ばれる人々は細々ながら命脈を保ってはいた。このことはかえって様々な波紋を投げかけることになる。

実朝の死に鎌倉中は打ち沈んでいたが、遠く離れた京都では正確な情報が伝わらず、憶測が憶測を生むという状態になっていた。そこで、幕府は加藤判官次郎を京都へ派遣して実朝暗殺の件を後鳥羽上皇へ奏上することととした。事は早急を要したので加藤次郎は早馬で駆け抜け1219(建保7)年2月2日には京都に入った。

仔細を聞いた後鳥羽上皇は、

「執権である北条義時と二位禅尼は鎌倉が混乱しないように取り計らえ」

という院宣を下した。二位禅尼というのは源 頼朝の妻であり、暗殺された実朝の生母である北条政子のことである。京都の町中では鎌倉殿の嫡流が滅んだ後は一体どうなってしまうのか、再び混乱と戦乱の時代となってしまうのか、やれ誰それが鎌倉幕府に対して謀反をしようとしているなどという噂が飛び交った。

鎌倉では早速、北条義時と姉の二位禅尼(北条政子)、そして評定衆が集まって善後策を練っていた。鎌倉幕府は御家人の連合体であるので鎌倉殿がいないとしても直ちに崩壊するというものではない。実際、第2代将軍頼家、第3代将軍実朝は初代の頼朝と比べれば大いに統率力を欠いていたが、それでも幕府が存亡の危機に瀕したことはなかった。

とはいえ、鎌倉殿は関東御家人を束ねていく象徴。象徴を欠いた後では、有力御家人同士が衝突するという危惧がある。そこで、

「やはり、どなたかを鎌倉にお迎えし鎌倉殿として仰ごう」

という声が自然と上がって来た。しかし、

「いったい、どのお方が相応しいだろう」

と有力御家人衆は頭を悩ました。あれこれと悩んでいるうちに、二位禅尼が、

「関白左大臣藤原道家公の御子のうちのどなたかをお迎えするというのは如何」

と提案した。この藤原道家(1193-1252)は後京極摂政九条良経と権中納言一条能保の娘との子。その一条能保は源 頼朝の姉と結婚している。従って、藤原道家には頼朝の姉の血が流れている。加えて、道家の妻の綸子は西園寺公経と一条能保の娘との間に生まれている。つまり、二重に源 頼朝と関係しているということになる。

評定衆の一同は、この考えに賛成し、1219年2月13日に九条家子息の鎌倉下向を要請する連判状を二階堂信濃守行光に持たせて後鳥羽上皇のもとへと走らせた。


This page is powered by Blogger. Isn't yours?

京と鎌倉の宇佐小路のショッピング おこしやす楽天