宇治の埋木

京を出た高倉宮以仁王は翌日には三井寺に入った。三井寺は準備が整っていなかったものの、法輪院を仮御所として用意した。以仁王を迎えて三井寺は俄然勢いづいた。

一方、源 頼政は京の近衛河原の自らの邸に火を放ち、息子の伊豆守仲綱、兼綱、頼綱のほか一族郎党と源先生(せんじょう)義賢の遺児である六条蔵人仲間家父子を引き連れて三井寺へと向かった。この後に及んでも平 清盛はまさか源 頼政が以仁王の背後にいて令旨を出させたなどとは思ってもいなかった。それが証拠に、頼政は以仁王ら叛旗を翻した軍勢への追討を命じている。頼政も、そうした状況を利用して、衛府の武器庫から武器を持ち出した。そうこうしているうちに、近衛河原の源三位邸から上がった火の手が六波羅の平家の館からもはっきりと確認できるようになった。ようやく、平家方は源 三位が裏切ったたことを知ったのである。

さて、河原左大臣源融の血を引く渡辺党の渡辺競という滝口の武士がいた。渡辺競は源頼政と非常に親しかった。そこで、頼政に競を誘うことを勧める人物がいた。ところが、頼政は、

「競殿は誘わなくても挙兵を知れば駆けつけてくる。それよりも、今は競殿を誘うことで挙兵が平家方に漏れることを恐れる」

と言って三井寺を目指した。

平 宗盛は渡辺競の武勇に惚れ込んで、名馬「南鐐」と「遠山」を与えて平家方への参加を約束させた。渡辺競は水も滴るほどの美男子であったが、源氏方からも平家方からも頼りにされるほど武勇にも優れた人物だったのだ。宗盛が安心したのもわずか3日。競が宗盛の門前で、

「宗盛殿に申し上げる。渡辺競、平家の方々に何の恨みも無く、宗盛殿からは名馬をも頂戴致しましたが、源三位殿から受けた御恩も一方ならず。よって、三井寺にて源三位殿に合流致します」

と大声で叫んだ。

さて、三井寺では南都奈良と比叡山に一緒に平家討伐を行うように要請したが、比叡山は平家に味方するとの返事を返した。こうなると、情勢は難しくなる。三井寺だけの軍勢では京六波羅の平家勢を迎え撃つことが出来ない。そこで、源頼政一党は挙兵を承諾してくれた奈良の興福寺勢との合流を目指した。軍勢が三井寺を発ったのは5月26日。総勢300余騎。奈良への途上、以仁王があまりにも疲れている様子であったために、一気に奈良に入るのではなくて、宇治の平等院でしばらく休憩をとることとした。

この宇治に平左兵衛督知盛を総大将とし、中将重衡、中宮亮通盛らを主力とする総勢2万余騎の平家軍が押し寄せた。多勢に無勢であったものの、三井寺の筒井浄妙、一来法師らが平家軍の先鋒を蹴散らし討ち取った。この2人を援護する形で渡辺党の競、省、唱、清、濯、列、授、至ら諸将が平家軍に襲い掛かった。平家軍も関東勢の上総介忠清、足利又太郎が奮戦。一人二人と渡辺党は討ち取られ、遂には、源 頼政自身が深手を負ってしまう。そこで、頼政は以仁王に、

「宮様、もはやこれまでで御座います。ここは頼政が防ぎきりますので、宮様は奈良の興福寺にお落ちになって軍勢をお集め下さい」

そういうと、頼政は以仁王を送り出し、

埋木の花さくこともなかりしに身のなるはてぞあわれなりけり

という辞世の歌を遺して一族郎党と自害して果てた。頼政の防戦虚しく、以仁王も興福寺に行く前に光明山で流れ矢に当たって命を落としてしまった。頼政の首は渡辺競が、以仁王の首は三井寺の覚尊法師が撥ね、平家方に渡すまいとそれぞれに隠した。

ここに、平家追討の令旨が出てから50日余りで叛乱は鎮圧されてしまったのである。


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