ぶらぶら絵葉書

新羅善神堂

新羅善神堂は滋賀県大津市の園城寺[三井寺]北院に所在する堂宇であり, その本尊である新羅明神坐像とともに国宝に指定されている由緒ある建築である.堂宇は三間社流造, 桁行三間・梁間三間, 一重, 向拝一間, 檜皮葺の典型的な室町期社寺建築の形式を示し, 屋根の流れが優雅な曲線を描く簡素で品格ある外観を備えている.現在の社殿は室町時代前期, 14世紀後半から15世紀前半頃に再興されたものと推定されており, 園城寺の境内に残る数少ない中世再興の遺構として建築史上の価値が高い.

新羅明神坐像は平安時代後期, 概ね11世紀の制作と考えられる木造坐像で, 像高は約78センチメートル, ヒノキの一木造で表面に鮮やかな彩色と截金を留める.顔つきは長い顎鬚と垂れ下がる目, 突出した鼻など独特の表情を示し, 指は細長くやや奇異な形状を呈するなど, 神像彫刻として極めて個性的であり, 日本彫刻史上でも特筆される作例である.像は通常秘仏とされ公開は稀であるが, 重要な展覧会などで特別に公開される機会がある.堂内には素木の厨子に安置される像を中心に簡素な須弥壇が据えられており, 神像の本地仏は文殊菩薩とみなされるなど, 神仏習合の信仰形態が色濃く示されている.

新羅善神堂の成立と新羅明神信仰には園城寺に伝わる縁起が深く関わる.伝承によれば, 智証大師[円珍]が入唐求法の帰途, 船中で老翁の姿をした神を感得し, この神が菩薩的な護持を約束して園城寺の守護神となったとされる.こうした由来は『園城寺龍華会縁起』などの中世資料に伝えられ, 以後, 新羅明神は園城寺の守護神として崇敬されるに至った.平安・鎌倉期以降は, 地方の有力者や武士・貴族の信仰も集め, 園城寺は新羅明神信仰を通じて政治的・宗教的な影響力を強めた.

特筆すべきは, 源新羅三郎義光[1045–1127]との関わりである.義光は河内源氏の棟梁源頼義の三男で, 後三年の役[1083–1087]などで活躍した平安後期の武将として知られる.その通称「新羅三郎」の由来は園城寺の新羅明神に深く関わると伝えられる.伝承によれば, 義光は元服の際に園城寺新羅善神堂において新羅明神の加護を受けて元服式を行い, これに因んで「新羅三郎」と称するようになったとされる.この逸話は, 平安後期における源氏と園城寺の密接な関係, さらには新羅明神信仰が武家社会に浸透していたことを物語る.義光の子孫である武田氏・佐竹氏・南部氏など甲斐源氏・常陸源氏の諸流は, その後も新羅明神を崇敬し, 「新羅三郎」の名跡とともに信仰を氏族的アイデンティティの一部として保持した.

また, 義光は笙の名手としても知られ, 「青柳」「石橋」といった秘曲を伝えたとされる.新羅明神の本地仏が智慧を司る文殊菩薩とされることと, 義光の文芸的才能とが結びつけられ, 武芸と文芸を兼ね備えた理想的武士像の象徴とみなされた.

園城寺は歴史の中で幾度も兵火に見舞われ, 多くの古建築を失ったが, 新羅善神堂は室町期の再興を伝える貴重な遺構として残り, 近世以降の保存修理や近代の文化財指定を経て今日に至る.新羅善神堂および新羅明神坐像は1952[昭和27]年3月29日に国宝の指定を受け, 以後, 保存修理や屋根替えといった整備が行われている.堂は園城寺本坊からやや離れた丘上に鎮座し, 鬱蒼とした樹林に囲まれて静謐な佇まいを保つ.参道を辿り着く境内は, 観光客で賑わう寺域中心部とは趣を異にし, 厳かな雰囲気を湛えている.

新羅善神堂の価値は多層的である.園城寺の守護神信仰として寺院共同体の結束を支えたこと, また神像・堂宇が神仏習合・本地垂迹説の具体例として中世宗教史における信仰と美術の関係を示すことが挙げられる.さらに源新羅三郎義光の元服伝承を通じ, 新羅明神信仰が武家社会に浸透し, 甲斐源氏をはじめとする武士団のアイデンティティ形成に寄与したことも文化史的意義が大きい.加えて, 建築史的には三間社流造の優れた遺例として研究的価値が高く, 彫刻史においても新羅明神像の異形かつ高度な造形が平安後期木彫の水準を物語っている.現代においても甲斐源氏の末裔やその系譜を意識する地域社会に新羅明神信仰が継承されており, 歴史的信仰の連続性を示す貴重な存在である.

滋賀県大津市園城寺町@2024-01


今日も街角をぶらりと散策.
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