ぶらぶら絵葉書

楠公息女の墓

楠木正成の娘の千早姫の墓所.

太平記によると,楠木正成は北朝方の大森彦七盛長により自害に追い込まれた.その功績により,大森彦七盛長は現在の愛媛県伊予郡砥部町重光に所領を得る.そ後にある魔住ヶ窪で,楠木家の宝剣『菊水』を取り戻そうとする千早姫に襲われたとされる.魔住ヶ窪には地蔵堂が建立されている.しかし,そこは四国.

千早姫の墓があるのは遠く離れた東京の池袋.その理由が気になる.墓の側面には,天保9[1838]年2月中沢忠顕建立と刻まれているという.後世の建立ということになるのか.ところが,墓所のある法明寺縁起には,楠木正成の息女とその夫の立願で高祖の像を彩色したと記されているともいう.そうなると,千早姫は確かに関東に下向し,関東の地で暮らして姫塚に葬られたという可能性もあるということになるだろう.

かつては,楠木氏は北条得宗家に仕える御内人であり,駿河国入江荘楠木[静岡県静岡市清水区楠]を発祥の地としていたとされた.入江荘には,同じく北条得宗家被官である長崎家の所領である長崎郷があった.さて,得宗家の内管領である平頼綱によって,河内国観心寺荘の地頭でもあった有力御家人の安達泰盛霜月騒動で滅ぼされる.平頼綱の弟が長崎光綱であり長崎氏の祖.この霜月騒動の結果として,河内国観心寺荘は北条得宗家の所領に組み入れられ被官である楠木氏が代官として派遣されたと考えられていた.奇しくも,池袋と同じ豊島区の長崎の地は,この長崎氏の所領であったことによる地名とされている.つまり,楠木氏もこの周辺に所縁が無くはなく,千早姫がこの地に嫁いだというのも無理筋ではない.とはいえ,楠木氏は駿河国の出身ではなく河内国の出身だという説が有力ではある.

真相は千早姫に聞く他ないだろう.

墓所は姫塚とも呼ばれる.

【参照】


今日も街角をぶらりと散策.
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